三国志ではマイナー武将も数多くいますが、郝萌(かくぼう)と曹性(そうせい)とそれらに属する将です。彼らは呂布(りょふ)の配下で、三国志演義で八健将という称号を与えられています。
八健将の構成員は序列の順番から、張遼(ちょうりょう)、臧覇(ぞうは)、郝萌(かくぼう)、曹性(そうせい)、成廉(せいれん)、魏続(ぎぞく)、宋憲(そうけん)、侯成(こうせい)ら八人です。ここで出てくる郝萌(かくぼう)、曹性(そうせい)はどのような将だったのでしょうか。
今回は八健将の序列三位の郝萌(かくぼう)と四位の曹性(そうせい)にスポットを当て、演義と正史での彼らの活躍を紹介します。
この記事の目次
正史での郝萌(かくぼう)と曹性(そうせい)
魏書の呂布伝では、英雄記より彼らのことを引用した記載があります。それによると、郝萌(かくぼう)は、河内郡の出身で呂布(りょふ)の配下でした。しかし、郝萌(かくぼう)は叛意を持っておりました。厳密には、他の者から持ちかけられたものかもしれません。
その当時、呂布(りょふ)は、菫卓(とうたく)を裏切った後、戦乱の中で袁術(えんじゅつ)や曹操(そうそう)等と敵対関係の様になっていました。乱世の権力者達が、お互い利用しつつ出し抜くと言った関係です。
正史:郝萌の叛意と曹性の反対
さて、その状況下で郝萌(かくぼう)は、主である呂布(りょふ)に裏切りを計画します。その企てに対して同じ八健将である曹性(そうせい)に相談等をしていました(注・正史では八健将という称号自体無いのですが、今回あえてこの様に記述しています)。曹性(そうせい) 「呂将軍は神性が備わっているため攻撃することは不可能だ。」曹性(そうせい)はそう言って反対していました。「神性とか、何言ってんの?」と思うかもしれませんが、当時信心深い人も多くいたので、これは結構説得力のある意見です。
正史:叛乱決行
ところが、郝萌(かくぼう)は曹性(そうせい)とともに反乱を起こしました。呂布(りょふ)が下邳城を手にした直後の建安元年(196年)6月、郝萌(かくぼう)は呂布(りょふ)に対して反乱を起こし殺害しようと襲撃しました。夜中、郝萌(かくぼう)は軍勢を率いて下邳城へ向けて、叫び声を揚げながら進攻しました。
しかし、守りが強固であったため侵入することができず、呂布(りょふ)はその間に配下の将である高順(こうじゅん)のもとに逃げ込みました。そこで攻撃を受けた時の叫び声の訛りから、郝萌(かくぼう)の叛乱であると断定します。直ぐに高順(こうじゅん)は軍勢を率いて下邳の城に向かい、郝萌(かくぼう)軍に対して矢の雨を降らせ撃退しました。
正史:叛乱の末路
郝萌(かくぼう)は撤退していましたが、この時曹性(そうせい)は計画が破綻したため、郝萌(かくぼう)を裏切ります。その戦いでお互い負傷し郝萌(かくぼう)は片腕を失い、曹性(そうせい)は刺し傷を負いました。そこへ、追撃してきた高順(こうじゅん)によって郝萌(かくぼう)は首を切られました。こうして、反乱は失敗に終わりました。
その後、呂布(りょふ)は反乱に加担した曹性(そうせい)に事情聴取を行います。そこで、この叛乱が袁術(えんじゅつ)と呂布(りょふ)の配下、陳宮(ちんきゅう)が関わっていたことが判明します。呂布(りょふ)は陳宮(ちんきゅう)が首謀者ないし計画に関わっていたものと判断したようですが、結局呂布(りょふ)は陳宮(ちんきゅう)を処罰する事はありませんでした。智略に優れる陳宮(ちんきゅう)を失いたくなかったのかもしれません。郝萌(かくぼう)の部隊は、以後曹性(そうせい)の指揮下となりました。
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