今回のお話は呉の名将の一人、朱治の話となります。朱治と言う人物がどんな人物か、そうしてどのような最期を迎えたのか。そしてその死因を知っていくと、今までになかった朱治の新たな一面が見えてくる……気がする!?
今回はより深く朱治と言う人物が孫権にとって、そうして孫呉にとってどれだけ重要な存在であったのか。それを見ていきたいと思いますのでよろしくお願いいたします。
この記事の目次
朱治ってどんな人物?呉にとっての朱治の位置
朱治は字は君理といい、揚州丹陽郡故鄣県の文官役人となっていた所を孝廉に推挙されました。そうして州の従事となった朱治は、当時勢い盛んであった孫堅の配下となり、188年には司馬となります。
孫堅の下で、そうしてその孫堅亡き後は孫策を、そして次は孫権をと、孫家三代に仕えた名将の一人です。
その活躍は三国志、呉伝にもしっかりと記録されており、朱治朱然呂範朱桓伝……そう、朱治は伝の真っ先に名前を残される人物でもあったのです。
朱治の存在の大きさ、孫権との深い関係
孫堅は朱治に度々別動隊を率いさせたり、援軍として派遣をするなど、一人の将として深く信頼していたことが記録されています。その信頼は孫策、孫権の代になっても変わらず、また朱治自身も数々の戦いに赴き、成果を上げました。
それだけでなく、人格的にも優れていたようで、孫翊に道義を説いて教えを諭したり、曹操に付こうとした人物を説得するなど、決して猛将気質だけでない朱治の人柄も記録されています。
孫権も朱治が国のために心を砕いて尽くしてくれていることを度々賞賛するほど、朱治の献身は周知のものだったことでしょう。
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朱治と朱然の関係、そしてその死因について
因みに「朱」の性で言うと呉では朱然を思い浮かべる人も多いかと思いますが、朱然は朱治の養子となっています。しかし養子と一言で言っても一切関係の無い間柄ではなく、朱然は朱治の姉の子、つまり甥っ子と叔父の関係になります。
これは朱然が13歳の頃、まだ朱治に子がいなかったため、孫策の仲立ちで縁付けられた関係です。とはいえ、後に朱治は実子が生まれて爵位はそちらが受け継ぐことになりますが……。
そんな朱治は224年に69歳で死去。正史には特にどのような死因であったのかは触れられていません。年齢だけを見てみるとそう早逝であるとは言えず、寧ろ寿命であったのではないかとも言える年代でもありますね。
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朱治の死因が寿命として……湧き上がる小さな疑問点
さて、朱治の死因はほぼ病死、もしくは老衰に至るものと見て間違いないと思いますが、ここからの呉の有り様を考えると「いい時期に……死んだかもしれねぇ……」みたいな感想がどうしても出てきてしまいますね。何せ陸遜なんかこの後20年後に憤慨に憤慨を重ねて亡くなりますから。
朱治が寿命を全うできたと仮定するなら、もちろん長年の献身は元より、何よりも孫権と良好な関係を築けていたことも大きいと思います。
が、本当にただその献身が報われた存在なだけが「朱治」なのでしょうか?今回はちょっと、呉における朱治の立ち位置を妄想……ゴホン、想像してみたいと思います。
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意外なつながり?朱治とあの人物との関係
朱治は孫権から非常に尊敬されていましたが、同時に尊敬している相手だけに、孫権は朱治に対して文句があっても言うことはなかったそうです。しかしその実は言えない不満を見抜いた人物がいました。
そう、孫呉の水、諸葛瑾ですね!
諸葛瑾は敢えて孫権の立場から朱治を責める手紙を書き、また敢えて朱治の立場から孫権に弁解する手紙を書いて、両方を孫権に比較させてみることで孫権の内に秘めた朱治への不満を解きほぐしました。
この事もあってか、孫権は最期までその朱治への小さな不満が爆発することなく、良好な関係が築けたと言っていいでしょう。はて、ここで気になるのはどうして諸葛瑾が孫権と朱治の諍いになりかねない問題を解きほぐしたかということです。
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実はあの人があの人と……?!
ここで諸葛瑾の話を少し、諸葛瑾は孫権の姉婿である弘咨により推挙され、孫権に仕えるようになりました。この孫権の姉ですが、同母かどうかも定かではありません。孫権の生母である呉夫人は一人娘を産んでいるため、この女性が弘咨の妻かもしれませんし、そうでない女性が産んだ娘の可能性もなくはないでしょう。
さて更にここで思い出して欲しいのが、劉備に妹を嫁がせた麋竺です。
麋竺は妹こそ早逝するも、蜀でとても劉備に大切にされていました。それは麋竺という存在の大事さ、貴重さも相まってのことでしょうが、肉親が婚姻関係にある、というのも一考できる要素の一つでしょう。そして古くから孫堅に仕えていた朱治、その後継者に孫堅の子の孫策が口出しをするような関係。……実は朱治の姉か妹が、孫堅に嫁がされていた可能性、あり得るのでは?
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書かれていない空白を夢見る面白さ、どうでしょう?
家ぐるみのお付き合いだったからこそ孫権も朱治を無下に扱わなかったし、縁戚関係だからこそ気を使って朱治に接していたのではないでしょうか。
また朱治にとって姪っ子が嫁いだ相手が推挙したからこそ、諸葛瑾はそれを慮って孫権と朱治の間の小さな不和を取り除くようなことを行ったのでは?
そう考えると、ある意味朱治の穏やかな最期を迎えるきっかけは、孫一家と婚姻関係にあったからこそのものだったかもしれません。更にいうと、異母兄ではなく異母姉の関係者だったからこそ、孫権も朱治を大事にできたのかな……?なんて、邪推染みたことも考えてみたりして。
まあ、これらは正史三国志に一筆たりとも書かれえていない筆者の妄想ではありますが。それでもこういう空白部分を塗り込めるように想像してみるのが楽しいのですよね。皆さんは朱治が孫権に大事にされている理由、どんなものが思いつきますか?
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三国志ライター センのひとりごと
「朱治の死因が穏やかなんだからきっと実は孫堅と姉か妹が縁戚関係だったのではないだろうか?」
文字にしてみると何とも空想の域にまだまだ漂っているような話ではありますね。しかし、ふと諸葛瑾が朱治と孫権との間を取り成したのはどうしてだろうと考えると、推挙の一件が思い起こされたわけです。推挙の一件がなくても諸葛瑾なら気を回して孫権の不満を取り除いたのでは?と言われるとそれもそうなのですがね!
名にはともあれ、朱治に関する一考でした。どぼーん。
参考:呉書朱治伝 朱然伝 陸遜伝 諸葛瑾伝
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