人生にはスジを通さないといけない事があります。例えば会社を辞める時には、面倒でも気が重くても、代行ではなく自分で辞意を告げるとか、年賀状を受け取ったら忙しくても、遅れてでも返事を返すとか、今でもスジというものは存在し、守らないと信頼を損なったりします。今回登場する桓階も、そんなスジを通しまくった人です。
この記事の目次
スジ1 あたしゃ孫堅にスジを通すよ!
桓階は、字を伯緒と言い荊州長沙郡の人でした。地方の名族の家柄だった桓階は、当初、郡に仕官して功曹という人事評定の職に就きます。たまたまその時、孫堅が長沙太守で桓階の優秀さを見抜き、孝廉に挙げたので、桓階は洛陽で尚書郎になります。しかし、間もなく父が死んだので喪に服する為に桓階は仕事を辞めて故郷に帰りました。
桓階が長沙に居た頃、孫堅は袁術の手先として荊州の劉表と戦い計略に掛かって戦死します。当然、孫堅の亡骸は劉表が回収しましたが、交戦中なので孫堅軍は誰も遺体を受け取りにいけませんでした。しかし、恩人である孫堅の死を知った桓階は、わざわざ襄陽までやってきて、
「あたしゃね!孫将軍には恩義があるんだスジを通させてもらうよ」と単身で劉表と直談判し、孫堅の遺体を返還するように要求します。劉表はスジを通す桓階の男気に感心し、孫堅の遺体を還したのでした。
スジ2 逆賊に加担するなんて許さないよ!
長沙郡に戻った桓階は、その後、長沙太守になった張羨に仕えました。西暦200年前後、曹操と袁紹が天下の覇権を巡って官渡の戦いを起こします。この時、袁紹派だった劉表は袁紹につく事を選択し、全力を挙げて曹操の背後を衝こうとします。
ところがここで、桓階のスジ心が動きました。曹操は献帝を擁している人物、かたや袁紹は以前、献帝を廃そうとした逆賊です。それなのに劉表は袁紹に付こうとしている。「あたしゃね、殿が栄達して天寿を全うする事を願っているよ。だから劉表がどうあろうと、何が何でも曹操様に付くべきだね、それがスジってもんじゃあないかい?」
張羨も先が見える人なので、それもそうだ、ではどうすればいいだろう?と桓階に聴くと桓階は、荊州南の四郡から三郡を纏めて、どちらにもつかずに中立を貫くに限ると言ったので張羨はそれを受け入れました。
ところが劉表がそれを知り長沙を攻めたので荊州は内乱状態になります。途中で張羨は病死しますが、三郡の民は、さらに張羨の子の張懌を立てて抵抗し、結局劉表は袁紹に具体的な支援が出来ないままに終わります。三郡が降伏した事を知った桓階は後難を恐れて隠遁しますが、劉表は逆に桓階を登用しようと従事祭酒の地位を送り、妻の妹の蔡氏を妻に娶らせようとしますが、桓階は、「あたしゃ、もう結婚しているんでね!重婚は許さないよ!」と丁重に断り、これを契機に病気を理由に退官します。
スジ3 曹丕様を差し置くなんてあたしゃ許さないよ!
西暦208年、劉表が病死すると、曹操は大軍を起こして荊州に侵攻、後継者の劉琮は曹操に降伏しました。曹操はかつて桓階が自分の為に働いてくれた事を覚えていて、桓階を賞賛して丞相掾主簿とし、趙郡太守に任命しました。
この頃、曹操はまだ後継者を決めてなく、魏の臣は曹丕を推すグループと曹植を推すグループに分かれて足の引っ張り合いの最中でした。その中で桓階はやはりスジを重視します。
「あたしゃ許さないよ!年齢から考えても徳の広さから考えても後継者は子桓様以外にないじゃないか」
桓階は、度々、スジを通して曹丕こそが後継者に相応しいと曹操に上奏、さらに曹植派の丁儀が曹丕派の毛玠と徐奕の欠点をあげつらうと
「そんな言い方はないじゃないか!二人は剛直な士だから、そりゃあ良く思わないヤツもいるさ、だけどそれが何だってんだい?人間、正直に勝る宝はないんだよ。それを曲げて欠点だけを言い募ろうなんざ、あたしゃ許さないよ!」
多分、そんな事を言い、毛玠と徐奕の欠点を庇い、その長所を挙げました。こうして、桓階は一貫して曹丕を支持したので、後継者が曹丕に確定すると曹丕がこれを恩義に思う事は並々ならないものがあったのです。
スジ4 部下を信じないなんてあたしゃ許さないよ!
西暦219年、荊州南部を支配する関羽が曹操が漢中に劉備討伐に向かった隙を突き、曹仁が守る樊城を包囲します。それに対し曹操は于禁を援軍に向かわすものの、于禁の七軍は漢水の氾濫で水没して敗北します。
この窮地に魏は動揺し、曹操は徐晃をさらに援軍に送りますが、魏の郡臣はそれでは足りないので、曹操自らが親征すべきと言い出し曹操もその気になりかけますが、そこで再び桓階がスジを通します。
「ちょっと待ってくんな、それじゃあ何かい?殿は曹仁と呂常将軍を信じておられないとそういう気持ちなのかい?」
曹操は、「いや、そうではない二人は十分に信じているが関羽の軍勢が多いので、加勢をしないと勝ち目が薄いのではないか?と考えての事だ」と返事をしました。それに対し桓階は
「だったら、ワシは二人を信じると断じて、この場から動かずにいるのが一番じゃないのかい?そうすれば二将軍も、殿の期待に応える為に死んでも降伏はせぬ・・と。こう覚悟も座るってもんじゃあないか?それを自ら出陣してしまえば、殿は二将軍の忠誠を信じていないと認めた事になる。そんな矛盾した態度は・・あたしゃ許さないよ!」
曹操は桓階の言葉を、もっともだと感じて出陣しませんでした。曹仁も田常も曹操の信頼に応えようとよく関羽の猛攻に耐え、呉の呂蒙や陸遜のアシストもあり、関羽を退ける事に成功したのは皆さんご存知の通りです。
曹丕に惜しまれつつ世を去る
曹丕が文帝として即位すると桓階への信頼は殊の外厚く、自分の子供達を補佐する存在として格別の寵愛を与えていました。しかし、その頃に桓階は重病に倒れます。曹丕は桓階を激励し、桓階の3人の息子に関内侯の地位を授け、重病の桓階には九卿の一つである太常の位を与え、食邑六百家を与えるなどしますが、病は回復せず、生涯スジを通し続けた桓階は帰らぬ人になったのです。曹丕は烈しく悲しみ貞侯と諡して、長年の功績に報いたのでした。
三国志ライターkawasoの独り言
スジを通し続けた桓階は、曹丕の死後も尊敬されつづけ、正始四年には曹芳により、曹魏の功臣二十名に選ばれています。こんなに立派な人物を認めないなんて、そんなヤツは・・あたしゃ許さないよ!!
参考:正史三国志
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