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趙雲の評価はどうして劉禅の時代まで遅れた?そこには深い深い理由がありました[真実の三国志]

2023年4月6日


 

阿斗を劉備まで届ける趙雲

 

 

皆さんは趙雲(ちょううん)という武将について考えると、やはり長坂の戦い(ちょうはんのたたかい
)
において単騎で駆け抜け、後の劉禅(りゅうぜん)となる阿斗(あと)を保護したシーンが思い起こされるのではないでしょうか。筆者は横山三国志から三国志の世界に飛び込んだので、このシーンは涙無くしては見れないシーンとしてまぶたの裏に焼き付いています。

 

京劇コスチューム趙雲

 

他にも各所で戦っている趙雲ですが、そんな彼が実際には昇進したのは劉禅の代になってからというのはご存知ですか?今回は趙雲に関して、その評価に関して色々話したいと思います。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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単騎駆けで有名な長坂の戦いのあっさり加減

長坂の戦いでの趙雲

 

 

まず彼の前半、最も有名である長坂の戦いにおいての単騎駆けについて、三国志演義の方から見てみましょう。三国志演義の方では、趙雲ははぐれた劉禅(当時は幼児であり「阿斗」である)と糜夫人(びふじん
)
を戦場で発見します。この際に糜夫人は既に太股を怪我して動けない状況でありましたが、趙雲は馬に糜夫人を乗せて劉禅を抱えて逃げることを進言するも、糜夫人はそれでは敵から逃げきれないと趙雲に幼い劉禅を託して自ら井戸に飛び込むのです。

 

 

曹操軍の輸送車を襲う趙雲

 

 

筆者は足手まといにならないように自害する糜夫人にひどくショックを受けたのをまだ覚えています。この後、趙雲は幼い劉禅を抱えて曹操(そうそう)の軍を相手に奮闘し、見事単騎で駆け抜けていくのが、有名な趙雲の単騎駆けですね。

 

同年小録(書物・書類)

 

 

が、こちらはあくまで三国志演義のお話。正史を見てみると「阿斗を自ら抱えて甘夫人を保護した」程度しか記されておらず、それどころか趙雲自体の記述も非常に簡素になっているのです。

 

 

 

趙雲の出世は劉禅の代になってから

公孫サンに味方をする趙雲

 

さて趙雲の履歴を見てみましょう。正史ではまずは公孫サンの部下で、袁紹(えんしょう)と戦わせられた公孫サンの部下として劉備(りゅうび)と一緒に派遣。

 

劉備の下で働くと決めた趙雲

 

その後そのまま劉備の部下になり、同行し続けます。長坂の戦いの後、牙門将軍に昇進。益州が平定された後翊軍将軍になり、劉禅が即位すると中護軍・征南将軍へ昇進します。

 

五虎大将軍の趙雲

 

 

ここでちょっと気になるのが、正史の趙雲は三国志演義では五虎将軍に任命された、そして正史では同巻に収められた五人の中で最も位が低いことです。

蜀の皇帝に即位した劉備

 

 

劉備が漢中王として即位した際に、この五人の内、関羽(かんう)黄忠(こうちゅう)馬超(ばちょう)張飛(ちょうひ)がそれぞれ前後左右の将軍位を授かっているのに対して趙雲は出世させられていません。

 

司馬昭の質問に回答する劉禅

 

 

言ってしまうと劉禅の代になってやっと昇進していくのです。そして前述したように、趙雲は正史三国志においての記述がとても少ないのです。

 

 

趙雲は三国志演義において評価された

趙雲

 

 

対して三国志演義では趙雲は非常に評価されている人物の一人です。三国志演義では前述した四人に並べられる五虎将軍に任命され、武勇に優れ、義に厚い人物として描かれました。また趙雲の描写として「生得身長八尺、濃眉大眼、闊面重頤、威風凜凜」という描写も入っています。

 

趙雲と劉備が初めて出会うシーン

 

簡単に言うと体格に恵まれていて、威風堂々とした偉丈夫、ということ。つまり記述が良く分からなかった趙雲の外見の描写までしっかりとされているのですね。これはたまに演義補正、なんて言われてしまいますが、記述が少ないから演義では描写を増やさなければ人物として難しかったのではないか、とも思います。

 

 

趙雲の評価は高いか?低いか?

趙雲と毛利勝永

 

 

さてここで趙雲の評価を見直してみましょう。趙雲は並べられた五人の中でも逸話が殆どなく、黄忠のように蜀での軍巧者でもありません。そんな趙雲がどうして他の五人と並べられたのか。しかし記述が少なくとも、流浪の劉備にずっと付き従った人物、失態もなく、確実に功績もある。

 

劉備を徹底サポートする趙雲

 

こういった趙雲の存在は劉備にとって非常に重要です。だからこそ趙雲は他の四人と並べられたのではないかな、と思います。目立たないが確かに貴重な人材でもあった、それが蜀の趙雲の評価であったのでしょう。だからこそ趙雲の出世が後になってされたのは、人材がいなくなったからこそ、その人物の評価が見直されたのではないかな、と思いますね。

 

 

三国志ライター センのひとりごと

三国志ライター セン

 

 

たま~に「趙雲が劉禅を助けなければ……」というネガティブな意見も見ますが、この時点でも劉禅は劉備の血を引く数少ない子供であり、それを救い出した趙雲に非はなく、あったとするならその後の育て方や周囲の環境にあったと言うべきでしょう。

 

周瑜、孔明、劉備、曹操 それぞれの列伝・正史三国志(本)

 

また色々なメディアで趙雲が注目されているのに関しては、趙雲の記述が正史では少ないため逆にやりやすい、同時にだからこそ趙雲をもっと評価したいと思う人が多くいるのでは、と思います。記述が少なくやや謎の人、趙雲ですが、単騎駆けに関してなどきちんと評価されても良い武将の一人だとも感じますね。

 

参考文献:蜀書趙雲伝 趙雲別伝

 

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晃(あきら)

晃(あきら)

横山光輝の『三国志』を読んで中国史にはまり、大学では三国志を研究するはずだったのになぜか宋代(北宋・南宋)というマニアックな時代に手を染めて、好きになってしまった男です。悪人と呼ばれる政治家は大好きです。
         好きな歴史人物:
秦檜(しんかい)、韓侂冑(かんたくちゅう)、 史弥遠(しびえん)、賈似道(かじどう) ※南宋の専権宰相と呼ばれた4人です。
何か一言: なるべく面白い記事を書くように頑張ります。

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