三国志の群雄たちは、兵糧が少なくなったら豊かな土地を奪い、そこで兵糧を調達すればよいと考えておりました。この考えを覆したのが棗祇(そうし)です。彼は曹操の軍団を支えるため屯田制を考え出します。この屯田制は目新しいものではなく前漢時代に生み出されたものですが、彼は前漢時代の屯田制にアレンジを加えて、新たな屯田制を完成させます。果たして棗祇が考え出した新屯田制とは一体どのようなものだったのでしょうか。
屯田制とは何?
元々屯田制とは前漢時代に生み出された政策です。前漢時代は辺境に居る異民族が度々、漢の領土に侵入するため国境に兵士を駐屯させておりました。漢の武帝は国境を守備している兵士に目をつけ、異民族が攻めてこない時期、兵士に畑を耕させれば兵糧を輸送する事無く現地で賄う事が出来ると考え、実施させた事がきっかけで生まれた政策です。この屯田制は中国のラスト王朝である清の時代まで続くことになります。
棗祇が考えた新屯田制
棗祇は曹操の創業期から仕えた人物です。彼は曹操に従って各地を転戦します。彼は各地を転戦している時、飢饉やイナゴによって兵糧が手に入らない状態を幾度か目にします。棗祇は兵糧が手に入らなければ戦が続けられない状況を改善しようと考え、兵糧を大量に効率よく生産する方法を模索します。彼は毎日兵糧の生産方法を数年間考え続け、ついに新たな方法を見つけます。その方法は屯田制です。前漢時代に存在していた辺境地域で兵士によって行う屯田ではなく、内地で流民や降ってきた民に畑を耕させる屯田を考え付きます。
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曹操に新たな屯田制を献策
棗祇は新たな屯田制を考えた韓浩(かんこう)と共に曹操へ献策します。曹操は彼らの意見を聞き、「収穫物を取り立てる方法はどうすんだ」と疑問点を質問します。当時穀物を徴税する方法は『農民が保有する牛の数に合わせて徴税』する方法を採用しておりました。曹操に質問された棗祇は「分田の術を用いるべきです」と進言します。曹操は首を傾け「分田の術ってなんだ」と棗祇に聞き返します。
分田の策とは何?
棗祇が曹操に提案した「分田の術」とは一体どのようなものなのでしょうか。分田の術とは田を自前で牛を所有する者と官から借りた牛を所有する者に分け、私牛所有者は官に5割の穀物を納税。官牛所有者は6割の穀物を納税する政策です。以前の納税方法だと牛の数に限定され、豊作の年でも国に入る穀物は増加せず、水害や干害(かんがい)があった時は救済措置などを民衆に施さなければならないため国に入る穀物の数量は減少してしまいます。しかし棗祇が編み出した分田の術を用いれば、納税する穀物をあらかじめ決めてあるため、豊作時や不作時に関係なく穀物が一定の割合で国に入ってくることになります。曹操は棗祇らの提案を受け入れる事にします。
曹操は「分田の術」を採用するも…
曹操は棗祇の献策を採用するも彼の提案した分田の術を用いませんでした。棗祇はせっかく考えた策を実施しない曹操に何度も詰め寄り、
「殿。早く私が考えた政策を実施してくだされ」と言います。曹操は何度も詰め寄ってくる棗祇に困りはて、荀彧(じゅんいく)と議論させます荀彧は農業の専門外であった為、棗祇に議論でコテンパンに負けます。
執拗に詰め寄る棗祇に負けて「分田の術」を用いる
曹操は荀彧を打ち負かした棗祇の願いを聞き入れ「分田の術」を正式に採用し、彼を屯田校尉に任命します。彼が屯田校尉に就いて一年後、収穫の時がやってきます。曹操は棗祇が考えた「分田の術」を試しに許近辺の田に取り入れます。すると許近辺の屯田は大成功し、百万石を超える収穫を挙げます。曹操は彼を大いに称賛し、自らの領地全体で行う事を決定。こうして曹操の領地となっているすべての農地で屯田制を用います。数年後曹操の領地では兵糧蔵が山積みになり、蔵からあふれる程の穀物を得ます。曹操は屯田制の成功によって各地の群雄を滅ぼし、覇業を推し進めていく事になります。
三国志ライター黒田廉の独り言
棗祇が新屯田制を考え出した事により、曹操の軍団は依然と比べ物にならない程強化されます。またこの政策は兵糧の収穫量が増えただけではなく、兵糧の運搬をする必要が無くなります。こうした恩恵にあずかる事で曹操は兵糧を気にする事無く、覇業へ邁進する事が出来ました。もし彼が曹操に仕えていなければ、魏を建国する事は厳しかったかもしれません。