諸葛亮は蜀(221年~263年)の丞相です。魏(220年~265年)と死ぬまで戦ったことから、蜀の忠臣として知られています。
蜀の建興12年(234年)に諸葛亮は魏と交戦中に亡くなりました。その後、彼の後を継いで丞相に就任したのが蒋琬です。蒋琬の丞相就任前後に蜀では血なまぐさい政争が起きています。
今回は正史『三国志』をもとに、諸葛亮死後の血なまぐさい政争を解説します。
この記事の目次
魏延の死
建興12年(234年)に諸葛亮は魏と対決中に亡くなりました。
諸葛亮は亡くなる前に李福という人物に後継者は蒋琬にすることを伝達しています。ところが、こういった人事に不満の人物がいました。
魏延です。
魏延は劉備の代から仕えている武将です。張飛を差し置いて、漢中の責任者に任命されたことがあり、劉備からの信頼は絶大でした。
しかし、諸葛亮とは北伐における作戦において馬が合いませんでした。そのため、諸葛亮に対する不平不満を述べていました。
諸葛亮の死後、魏延は軍を掌握しようと企みます。しかし、諸葛亮の側近の楊儀は急いで劉禅に魏延の反逆を訴えました。一方、魏延も楊儀が反逆したと劉禅に訴えました。
劉禅はどっちが本当のことを言っているのか分かりません。この時に決断したのが蒋琬です。
蒋琬も諸葛亮の側近の1人なので、魏延がどういう人物なのか知っていました。蒋琬は楊儀を信じることを劉禅に訴えました。その結果、魏延討伐の命令が下されて魏延は討たれました。
楊儀の死
ところが楊儀も魏延の死から間もなく世を去ります。楊儀も劉備の時から仕えていた人物でした。兵糧の計算に関しては一流の腕前であることから、劉備・諸葛亮の両方から愛されていました。
ただし、性格は陰険で心根が狭い男だったので、諸葛亮は後継者にする気が無かったようです。そんなことを全く知らない楊儀は魏延を討伐した功績を人に誇らしげに語っていました。
「諸葛亮さんの後継者と言えば、もう俺だよ俺」という感じだったようです。
ところが、結果は楊儀の期待を裏切るものでした。諸葛亮の後継者は何度も言っているように蒋琬になったのです。一方、楊儀は「中軍師」という位を与えられました。ところが、これは名前だけは良さそうなのですが中身は何も無い官職です。
おそらく、楊儀の権力を削ぐために用意したと筆者は考えています。こうして楊儀は毎日、出社してもやる事の無い社内ニートになったのです。実際に彼のため息や舌打ちが職場には、響いていたようです。次第にイライラしてきた楊儀は、酒を飲んでうっ憤を費禕に話しました。
「俺は蒋琬よりも年齢や官職だって上だったんだぞ!それなのに、なんで俺がこんな目にあわないといけないんだ!」
ところが、費禕はこれを劉禅に密告しました。実は費禕は蒋琬と仲が良かったのです。怒った劉禅は楊儀の官職を剝奪して庶民に落とします。「庶民」と言っても現代の人が考える庶民ではありません。地主レベルです。
庶民に落とされた楊儀は恨みが収まらず、ブツブツと文句を言い続けます。これがさらに劉禅の耳に入り、とうとう逮捕になります。しかし逮捕の直前に楊儀は自害しました。
三国志ライター 晃の独り言
魏延と楊儀は諸葛亮の存命中は、北伐に欠かせない人材でした。だが、2人の関係は水と油であったので諸葛亮は対応に苦労していたようです。諸葛亮・魏延・楊儀の3人の死後に丞相となった蒋琬は、亡くなるまで魏に対しての北伐を一切行わずに蜀の内政に対して努力しました。
これは筆者の推測の域ですが蒋琬は蜀を安定させるためには、まず上記の3人に消えてほしいと望んでいたのではないでしょうか。
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