関羽を生け捕りにして死に追いやったということで
関羽ファンには憎々しい人物であろう呂蒙ですが、
正史『三国志』において
その著者である陳寿から次のように評されています。
呂蒙勇而有謀断、識軍計、譎郝普、禽関羽、最其妙者。
初雖軽果妄殺、終於克己、有国士之量、豈徒武将而已乎!
(呂蒙は勇にして謀断有り、軍計を識り、
郝普を譎き、関羽を禽にするは、最も其の妙なる者なり。
初めは果を軽んじて妄りに殺すと雖も、終に己に克つに於いて、
国士の量有り、豈に徒の武将なるのみか!)
「呂蒙には勇気がある上に謀をする知恵や決断力があり、
軍略の何たるかをわきまえていた。
郝普を欺いて関羽を捕らえたことは、最もすばらしい功績である。
若い頃は軽はずみで妄りに殺人を犯してしまったこともあったが、
ついに自分に打ち勝っている。
ここには国士の器量がある。
どうして呂蒙をただの武将と言えようか!」
まさに、称賛の嵐です。
しかし、呂蒙がここまで褒めそやされるほどの大人物となれたのは、
主君・孫権の助言があったからに他なりません。
今回は、理想の主君・孫権と呂蒙のエピソードをご紹介します。
この記事の目次
孫策の死後、気持ちを切り替えて孫権に仕える意志を見せた呂蒙
呂蒙は元々、孫策に見出されて
呉に仕えていた武将でした。
しかし、孫策は若くして亡くなってしまいます。
そこで、孫策の後を継いだのが孫策の弟の孫権でした。
ところが、
「孫権は若いし、ただのボンボンでしかない」
と軽んずる臣下たちが続出。
あの魯粛まで
「故郷に帰っちゃおうかな…」
なんて言い出す始末でした。
しかし、呂蒙は新しい主君・孫権をすぐに受け入れ、
軍の練兵に励みました。
その結果、
孫権は呂蒙の軍が見事に訓練されていることを喜んで
呂蒙軍の兵を増やしてやったと言います。
呂蒙の活躍ぶりに孫権も大喜び
その後も呂蒙は孫権のために
あらゆる場面で大活躍。
黄祖との戦いで先鋒として出陣し、
敵将の陳就を討ち取って見せたり、
甘寧を救出すべく夷陵に出陣し、
更に罠を張って敵の馬を300頭も奪ったり…。
挙げればきりがないほどです。
しかし、彼がここまで活躍することができたのは、
主君・孫権のアドバイスがあったからに他なりません。
呂蒙が活躍の裏には孫権のアドバイスがあった…!
呂蒙のことを知れば知るほど
私たちは呂蒙の優秀さに痺れてしまうのですが、
その昔、呂蒙は「呉下の阿蒙(アホの蒙ちゃん)」と呼ばれていました。
なぜアホ呼ばわりされていたかというと、
貧乏な家に生まれた呂蒙には学が全く無かったからです。
しかし、孫権だけは
呂蒙が本当は賢い人物であるということを見抜いており、
呂蒙を決してアホ呼ばわりすることはありませんでした。
そんなある日、
孫権は呂蒙に次のようにアドバイスをします。
「儒教や歴史の勉強をしてはどうかな。」
ところが、アホ呼ばわりされ続けて
意地になってしまっていたのか、
呂蒙は「いや、自分忙しいんで」と拒否。
それでも孫権は言葉を続けました。
「お前の主君である私でも
忙しい合間を縫って勉強できたのだ。
お前にできないはずがない。
ただ過去のことを知るだけでいいのだ。」
この孫権の言葉に呂蒙は心を動かします。
呂蒙はすぐに勉強をはじめ、
結果、魯粛に「もうアホの蒙ちゃんじゃない!」
と言わしめるほどの博識な人物になったのでした。
孫権、病に伏した呂蒙が心配すぎて壁に穴を開けて垣間見をする
学を身につけた呂蒙は、鬼に金棒モード。
あらゆる計略を巡らせて
呉に多くの勝利をもたらしました。
その中でも特に大きな武功といえば、
やはり関羽を捕らえたことでしょう。
しかし、
これほど優秀な呂蒙も病には勝てませんでした。
呂蒙が病に伏したことを知った孫権は
嘆き悲しみ、賞金をかけてまで呂蒙のために医者を探しました。
また、呂蒙を内殿に寝かせ、
呂蒙が自分に気を遣わないように
壁に穴を開けて暇さえあれば呂蒙の様子を垣間見したと言います。
それでも
呂蒙の病状は良くならず、
呂蒙は42歳でその生涯を終えたのでした。
三国志ライターchopsticksの独り言
孫権は呂蒙を「周瑜には及ばずとも、魯粛に勝る」と評し、
さらに「呂蒙や蒋欽ほど学問に励んで伸びた人物はいない」と称賛しています。
孫権は、兄の孫策が亡くなった後、
すぐに自分についてきてくれた上に、
助言を素直に聞いて学問に励み、
呉に数々の勝利をもたらした呂蒙のことをとても愛していたのでしょう。
孫権と呂蒙のような主従関係を築くことができたら、
これ以上喜ばしいことはなかったでしょうね。
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