張飛は蜀(221年~263年)の将軍です。蜀の初代皇帝劉備に若い時から付き従って様々な功績を挙げました。張飛には嘘か誠か分かりませんが、様々な逸話が残されています。
今回は現代にまで残されている張飛伝説について紹介致します。
肉屋の張飛
北京市から約60キロメートルほど南に下ったところに劉備の本籍地の涿県があります。
そこから西南方向に行くと張飛の故郷と言われている「張飛店」という町があります。
ちなみに「忠義店」とも言うようです。張飛はこの町で肉屋を営業していました。
また、張飛が肉を貯蔵していたと言われている古井戸も残っています。
張飛は人々に対して、「古井戸に乗せている岩を持ち上げたら中の肉はタダで差し上げます」と言っていました。現在で言うイベントを行っていました。
ところが偶然、通った関羽があっさりと成功させたので面白くないです。
関羽と張飛はケンカになりました。
そこを劉備が仲裁に入り、桃園の誓いが結ばれたのでした。
この話は無論創作です。張飛が肉屋だったことは正史『三国志』には記載がありません。
おそらく、前漢(前202年~後8年)の初代皇帝劉邦の武将の樊噲がモチーフではないかと推測されます。
樊噲は肉屋出身でしたので・・・・・・
また、桃園決議も『三国志演義』の創作であり史実ではありません。
おそらく、民間で流布した俗説の1つでしょう。
知識階級を尊敬する張飛
実は信じられないかもしれませんが、張飛は知識階級を尊敬していました。
「嘘だー!」と叫びたくなるかもしれませんが本当の話です。
張飛は下っ端兵士には暴力を振るい、知識階級にはペコペコする危ない性格でした。
現代でいう嫌味なパワハラ上司の姿です。
劉備からその点の注意を何度も受けたようですが生涯、直りませんでした。
この点に関して面白い逸話が残っています。
張飛が劉巴(りゅうは)という人物の屋敷に泊まった時の話です。
劉巴は荊州や蜀で知られた名士でした。
張飛はぜひ劉巴と酒を酌み交わしたかったのですが、劉巴は何もしゃべりません。
怒った張飛は諸葛亮孔明に訴えます。
諸葛亮が劉巴を説得するも彼はこう言いました(翻訳は分かりやすくしています)
「なんで俺が、あんな兵隊野郎と一緒に飯を食わないといけないんだ?」
結局、断固拒否されました。
これには理由があります。劉巴は文化人の出身、張飛は無教養の庶民の出身です。生まれの壁から断ったのです。要するに劉巴のプライドが高かったのです。
張飛の死に気付いた劉備
蜀の章武元年(221年)に劉備は関羽の敵討ちのために呉(222年~280年)に出兵しました。
もちろん、張飛も随行の予定になっていました。
ところが、直前に張飛は部下の手にかかり殺されました。
この報告書が届いた時点で劉備は中身も読まずに「ああ、張飛が死んだか・・・・・・」と言ったそうです。
無論、劉備は予言者ではありません。これには理由があります。
この点については南宋(1227年~1279年)の政治家・学者でもある胡三省が説明しています。
張飛が死んだ時に文書が都督という位の低い人物から送られています。
文書は普通、将軍から送られるものなのにそれが段階を飛ばして送られたから、劉備は張飛の死に気づいたそうです。ちなみに、張飛の首は重たかったのか途中で捨てられたようです。
しかし、その首が自分の墓まで飛んでいったようです。
まるで平将門の首塚伝説ですね・・・・・・
三国志ライター 晃の独り言
以上が張飛の逸話に関しての記事でした。
劉巴と張飛の話に関しては後日談があります。
孫権と張昭が2人の話を耳にしました。張昭は「張飛が劉備の長年の側近ということは分かっているのに拒否するのは失礼だな」と劉巴を責めました。
ところが孫権は「家臣が人の顔色を見てコロコロ態度を変える方が良くない」と言いました。
おそらく赤壁の戦いの張昭の降伏論に対する皮肉だと思います。
※参考文献
・高島俊夫『三国志 「人物縦横断」』(初出1994年 のち『三国志 きらめく群像』ちくま学芸文庫 2000年に改題)
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