後漢時代に「司空」という位についた荀爽を曾祖父に持つ荀勗。家柄の良い生まれでした。
現在の日本でいうところの大臣に就任し、皇帝からも頼りにされるようになります。やがて、晋にとって重要な地位に上りつめるのです。ここでは大臣となった荀勗のストーリーについて紹介していきます。
荀勗の曾祖父は「司空」というブルジョワジー
後漢時代に司空というそれはそれは高貴な官職がありました。日本の官房長官やアメリカの副大統領に匹敵するパワーを持っていたのです。
その司空に就いていた「荀爽」が荀勗のひいおじいさんでした。つまり、幼い頃から朝廷の内外を行き交うことができたのです。
子どもながらに朝廷のシステムや争いなども目にすることができました。
反乱を起こした鍾会は親戚のおじさん!?
王朝が変わりつつある世の中において、次のエンペラーは誰になるだろうかという議論がなされていました。すると「鍾会」が魏に対して反乱を起こします。しかし、クーデターの首謀者・鍾会は、荀勗の伯父に当たる人物でした。
世間では反逆者の烙印を押されますが、荀勗にとっては小さい頃に世話になった親戚のおじさん。自分にまで手が回ってくるのは必死です。
呉への手紙は一騎当千!
西暦264年。鍾会の乱を平定させた魏、残るは江東の虎・呉です。
荀勗は司馬昭とともに洛陽の地へと向かいます。理由は裴秀、羊祜らと「秘密会議」を開くためです。いうならば三国時代のヤルタ会談、次の一手をどう打つか決める大事なシーンに荀勗は同席していたのです。
そこで彼らは使者を呉に派遣することにしました。
司馬昭は呉への使者に持たせる手紙を文士・孫皓にも書かせますが、採用したのは荀勗の書いた手紙。結果、呉は魏に従うことになりました。司馬昭は「よくやった。おぬしの書いた手紙は10万の大軍にも勝る!」と絶賛します。
ほどなく司馬昭は晋王となり、荀勗は「侍中」の位に就きます。手紙一つで大出世です。
その後、禅譲を受けて晋の皇帝となった司馬炎の側近となり、朝廷内で権力を握るようになります。
降格のきっかけは失言!?
皇帝の司馬炎には「司馬衷」という子どもがいたのですが、皇太子の器ではなく頼りない人物でした。次の皇太子にふさわしい人物がいないことに司馬炎は四六時中、頭を悩ませていたのです。
思い立った皇帝は「荀勗」と「和嶠」の二人を離れに住んでいる皇太子・司馬衷の元に向かわせます。朝廷に戻った二人、報告内容に違いが生じます。荀勗は「司馬衷様は素晴らしい逸材です」とほめそやし、和嶠は「司馬衷様は相変わらずのご様子です」と見たままを報告。
皇帝は荀勗を見下げ、和嶠のことを尊敬するようになります。荀勗と皇帝との間に確執が生まれた瞬間でした。
荀勗のその後…
やがて、荀勗は小さなことにも慎重になり、態度を改めます。しかし、弟の荀良からは「あなたはすでにみなの信頼を失っています。
良い行いをしなければ、地位を回復することは難しいでしょう」と言われてしまいます。
これには答えず、弟が去ってから子どもたちに漏らします。
「大臣というのは秘密を守れなければ、自らの身分を失ってしまう。
朝廷に背いてはならない。息子たちよ、慎重に行動しなさい」
しばらくして、荀勗は尚書令に格下げされます。
これは朝廷の機密に関われなくなったことを意味するのです。
例えるなら、CIA長官から州の保安官になったようなもの。
もともと尚書令は軍事機密を握っている役職でしたが、晋の時代にはその役目を中書令が担っています。
内心、荀勗は悔しがったことでしょう。
三国志ライター上海くじらの独り言
趙雲や関羽が武で三国志を盛り上げた人物ならば、荀勗は文才で晋の皇帝を支えた人物。
華やかな武勇伝こそありませんが、探っていくと相当な人物であったことがわかります。
武将のようなキャラクターは小説やゲームにも映え、名を挙げます。しかし、荀勗のような人物は、さほど注視されません。
三国志のゲームで荀勗が手紙で攻撃してたら、面白いですね。
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