『三国志』といえば赤壁の戦いを思い浮かべる人は多いでしょう。今から10年ほど前に『レッドクリフ』という赤壁の戦いを描いた映画が話題になったことを覚えているという人も少なくないのではないでしょうか。
複雑に交差する三国の思惑…。蜀の諸葛亮と呉の周瑜の激しい駆け引き…。圧倒的に不利だった戦況を見事な奇策によって覆し、80万の曹操軍をわずか数万の孫権・劉備連合軍が打ち破る…。ページを繰る手に汗がにじんできたという人もいるでしょう。
ところで、この赤壁の戦いというものは、実際のところどのようなものだったのでしょうか。その実態を探るべく、正史『三国志』の方を少し覗いてみましょう。
三国それぞれの君主の本紀や伝では意外とあっさり…
陳寿が著した正史『三国志』から赤壁の戦いの全貌を読み解くにはまず魏の曹操についての本紀・武帝紀、蜀の本紀ともいえる劉備の伝・先主伝、呉の本紀ともいえる孫権の伝・呉主伝の3つをあたってみるべきでしょう。
しかし、赤壁の戦いに関する描写はどれも意外とあっさりしたもの。
こっぴどく負けた曹操の本紀で「赤壁で劉備と戦ったが不利だった。疫病で多くの兵が死んだために撤退した。」としか書かれていないのは心中お察しできるような気がしなくもないですが、大勝した劉備の伝や孫権の伝もわりとあっさり。
「孫権の配下である周瑜や程普たちと一緒に曹操を赤壁で大破し、曹操軍の船を燃やした。」「周瑜と程普を左右の督として1万ずつ兵を与え、劉備と共に赤壁に進軍して曹操軍を大破した。」
これでは赤壁の戦いがどのようなものだったのか全然わかりませんね…。
周瑜伝に見る赤壁の戦い
しかし、やはり実際に戦いの指揮をとった周瑜の伝にはけっこう詳しく赤壁の戦いの様子が描かれています。
「赤壁で曹操軍を劉備と一緒に迎え撃った。このとき曹操軍は疫病に苦しめられていたため、一戦交えただけで敗走して長江北岸に逃げて行った。黄蓋が敵の船がくっつきあっているため、焼き討ちを掛けるべきだと進言してきた。
そこで周瑜は数十艘の船に焚き木や草を積んで油を注ぎ、曹操に黄蓋が降伏するという旨の偽手紙を送って船を発進。黄蓋は曹操の軍船に近づくと、自分の船を切り離して油が染みた船に火を放った。そのときたまたま強風が吹いて全ての船に火が移り、岸にあった曹操の軍営地にまで火が延びた。おびただしい数の兵や馬が死に、曹操は南郡に敗走した。」
…確かに他に比べると詳しいのですが、火計は黄蓋が思いついたものだったなんて!風はたまたまふいたものだったなんて!とちょっぴりガッカリしてしまいますね。
伝によって矛盾する描写
正史の記述に悶々とした気持ちを覚える所以はそれだけではありません。伝によって矛盾する描写があるのです。それは、劉備と孫権が同盟を結ぶ場面。
諸葛亮伝では「諸葛亮は劉備に孫権と同盟を組むことを献策し、その時劉表の弔問に訪れていた魯粛を連れて孫権と面会をしに行った。」と書かれているのですが、魯粛伝では「劉表の弔問に訪れていた魯粛が劉備を訪ね、劉備に孫権と共に曹操と戦うように説得。劉備は諸葛亮を使者として孫権と同盟を結んだ。」と書かれています。
諸葛亮が主導したのか魯粛が主導したのか、一体どっちだったの!?と混乱してしまいますよね。
陳寿の『三国志』に注を付した裴松之は蜀と呉がそれぞれ自分に都合の良いように記録していたため、陳寿もそれに引っ張られたのだろうと言っていますが、この矛盾は歴史家としては結構致命的な気がします。
もしかしたら陳寿はあえて矛盾を含ませたのかもしれませんが、実際のところどのようにして蜀と呉の同盟が結ばれたのかは正史を読んでもわからずじまいというわけです。
『三国志演義』の鮮やかな描写を生み出したのは何?
それにしても、『三国志演義』のあの臨場感あふれる描写は何なのでしょうか?
正史の描写に基づいている部分も確かにありますが、やはりそのほとんどは『三国志演義』の作者のオリジナルの様子。しかし、頭の中の想像だけであれだけ鮮やかに文字を紡いだわけではなかったようですよ。
実は、『三国志演義』が編まれた時代である明の建国エピソードが下敷きになっているといわれています。そのエピソードというのは、鄱陽湖の戦いです。互いに覇を争っていた朱元璋と陳友諒は鄱陽湖で激突。巨艦数百艘、60万の軍勢を率いる陳友諒に対し、朱元璋は小型船中心の20万の軍勢で挑みました。
圧倒的に不利と思われた朱元璋でしたが、鎖で繋がれた巨艦を小回りのきく火砲船団により追い込んでいき、最後は決死の火砲船七艘と味方してくれた強風により陳友諒を大破したのでした。
三国志ライターchopsticksの独り言
鄱陽湖の戦いがあったからこそ、『三国志演義』で赤壁の戦いがあれほど生き生きと描かれていたのですね。
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