『三国志演義』は貧乏の家に生まれた筵売り・劉備が、金持ちのボンボン・曹操に対抗するという構図によって庶民の心を惹きつけていると言われる小説ですよね。
一億総中流という言葉が生まれてから既に何十年も経った現代の日本でも、未だに金持ちボンボンに対しては良いイメージはなく、貧乏でも頑張っている人を応援したくなるという人が多いのではないでしょうか。というわけで、未だににっくき悪役として人々の心に君臨し続ける曹操ですが、実は彼はボンボンとは思えないほどケチな人物だったようです…。
金持ちウハウハボンボンライフを満喫
曹操は後漢代に活躍した宦官・曹騰の孫にあたる人物です。「宦官の…孫?」と疑問に思う人もいるでしょう。たしかに、宦官であったため曹騰には生殖能力はありませんでした。しかし、曹騰はその功績が讃えられて特別に養子をとることが許されたのです。そんな曹騰が自らの子として選んだのが、一族の中で一番の孝行者・曹嵩でした。
曹嵩は父の威光によってトントン拍子に出世していき、着々と財を蓄え裕福になっていきました。そして、そのお金で曹操をはじめとする子どもたちに何不自由ない暮らしをさせていたと言います。もしかしたら曹嵩は、「宦官の孫」と馬鹿にされるであろう子どもたちの心を憐れみ、せめて物質的には豊かな思いをさせてあげたいと思っていたのかもしれません。
パパの援助で反董卓連合に参加
曹操は父の思いを知ってか知らずか、ボンボンらしくウハウハな幼少期を送っていたのだそうです。そんな曹操も幼少期は父と同じく漢王朝に仕えることになるのだろうと思っていたことでしょう。しかし、ご存知の通り曹操は後漢末の動乱に身を投じていくことになります。
黄巾の乱で名を挙げたことにより、出世街道まっしぐらかに思われた曹操でしたが、宦官暗殺計画だの何進が返り討ちに遭うだのといったすったもんだがあり、挙句の果てに袁紹らによって宦官が皆殺しにされて董卓が実権を握ってしまったからさぁ大変。
出世もへったくれもなくなってしまったのです。
しかしそこに反董卓連合軍の話が舞い込んできます。曹操は頼りになるパパ・曹嵩から巨額の資金援助を受け、他の者たちに遅れを取らずに駆け付けることができました。曹操は董卓をやっつけようと奮戦するのですが、何だか周りの空気がおかしい…。孫堅によって董卓が長安に逃げると、袁紹と袁術が争い始めて反董卓連合軍は空中分解。曹操は「やってられん」と早々に脱退し、兗州で爪を研ぐことにしたのでした。
兗州で終わりの見えない節約生活を強いられる
曹操は豊かな兗州の地を拠点としてライバルたちを蹴落としてやろうと考えたようですが、何度も何度も戦を繰り返していくうちに、兗州の地は見る影もなく痩せていってしまいました。
戦死して耕す者がいなくなった田畑は荒れ果て、曹操軍は食糧の供給すらままならない状態に陥ります。せっかく有利に進めていた戦も食糧不足のために撤収せざるを得なくなったり、兵たちの不満が爆発したりともう滅茶苦茶。この状況を打破すべく曹操は屯田制を導入するに至ったわけですが、それまでは曹操自身も爪に火を灯すような節約生活を強いられていたようです。
常に食糧危機に怯えて暮らさなければならなかった兗州時代の生活は幼少期にボンボンライフを送っていた曹操には相当こたえたらしく、その反動のためかジリ貧生活から抜け出してもケチケチ大魔王として君臨することになったのでした。
後宮の女たちにも節約生活を強いる
化粧箱を覆う布が擦り切れるまで使ったり偉くなっても皮弁という簡素な帽子をかぶったりとケチケチエピソードに事欠かない曹操ですが、なんと男の臣下たちだけではなく、後宮の女たちにも節約生活を強いたのだとか。
一髪、二化粧、三衣装と言われる美しい女になるための3つの要素がありますが、曹操は「三衣装」をバッサリ斬り捨てます。布の節約のために裾の長い衣装を禁止したのです。しかし、それだけではありません。なんと娘たちの嫁入り道具もケチり、皇后の実家への支援もケチっていたといいます。女性たちからはブーイングの嵐が巻き起こっていたことでしょう…。
三国志ライターchopsticksの独り言
しかし、曹操はただただドケチだったわけではないようです。大切な配下への恩賞や恩を受けた人への謝礼などにはこれでもかというくらいお金を使っていました。そして最期に「自身の墓には余計な金品を入れるな」と言って世を去った曹操。おそらく曹操は金の使いどころを誰よりもわきまえていたのでしょう。
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