曹操に仕えた二人の夏侯の内、生涯前線に立ち続けたのが夏侯淵です。勇猛にして部下に愛情があり、将軍らしい将軍だった夏侯淵ですが、彼は漢中を劉備と争い、法正の計略により定軍山で黄忠に斬られてしまいます。
その理由について、曹操は「夏侯淵は将軍らしからず、退く事を知らない匹夫の勇に陥った」と評しました。しかし、この戦いそもそも魏が兵力不足であった事が敗戦の原因であるかも知れないのです。
劉備の兵力は夏侯淵より多かった
西暦218年、劉備は漢中を手に入れようとして陽平関に出張ってきました。それに対して漢中を任されていた夏侯淵は撃って出てにらみ合いが起きます。
この時、劉備は別働隊として呉蘭・雷銅・張飛・馬超の別動隊を武都に派遣していました。ところが、それに対して夏侯淵は動いている形跡がありません。逆に曹操が反応して、曹洪、曹休を派遣して呉蘭と雷銅を戦死させます。この戦いの総大将は曹洪でしたが、曹操は曹休に絶大な信頼を寄せて、実質総大将として扱い、手柄を立てさせています。
それは、別にいいですが、曹洪にしても曹休にしても鄴から派遣されているわけです。こんな遠くから派遣する位なら、夏侯淵に余分に兵力を与えて迎撃させる方がずっと効率的であるように思うのですが、どうして、そうしないのでしょう?考えられる理由は一つ、曹操には兵力の余裕がなく、夏侯淵は劉備を下回る兵力で漢中を守っていたという事です。
張郃相手に兵力を十に分散する劉備
定軍山の戦いで劉備は精兵万余を十に分けて張郃にぶつかり勝てなかったとあります。しかし、これは張郃伝の記述であり夏侯淵伝では張郃の軍は不利になり夏侯淵は自軍の半分を裂いて救援に向かわせています。劉備軍は万余と言いますが、仮に張郃と兵力が同数なら、これを、わざわざ十にはわけないと考えらえます。
恐らく、兵力的には張郃の倍はいて、その半分を裂いて十に分け張郃を攻撃したのでしょう。それに対して、張郃はよく持ちこたえ負けませんでしたが、かなり兵力は消耗したか、陣営を劉備に焼き払われ不利になりこれを危惧した夏侯淵が自軍を半分に割いて張郃を救援したのです。
夏侯淵、劉備軍と遭遇、壮烈な戦死を遂げる
劉備は夏侯淵の本軍が半減した事を勝機と見て、法正の討つべしという助言に従い夏侯淵の軍に黄忠をぶつけます。この時、黄忠は夏侯淵の本陣から南へ十五里離れた場所にある逆茂木を焼き払います。逆茂木とは、木の一方を研いで尖らせ、地面から斜めに突き出させたもので、城壁をのぼる邪魔をする防御兵器です。
夏侯淵は、逆茂木を自ら直そうと軽装兵を率いて出てきて、それを見た黄忠と法正は夏侯淵の本陣を包囲して軍鼓を盛大に鳴らし奇襲をかけたので、夏侯淵は討ちとられたとあります。非常に狭い所での戦いになったので、短兵は接近して激戦になりついに夏侯淵は逃げきれず戦死したのです。
ひたすらに守り続けている印象の夏侯淵・張郃
定軍山の戦いを見る限り、kawausoには夏侯惇と張郃の軍勢が劉備を上回っていた様子は全く見られません。もっとも史書には、劉備の兵力を精兵万余とするだけで、具体的に張郃と夏侯惇にどの程度の兵力があったかは不明ですがそれでも史書を読む限り、劉備は自軍を裂いて十分割したり、張飛や馬超を別動隊として武都に派遣したり、兵力には余裕があるようです。
逆に張郃は劣勢になり夏侯淵に救援を要請したり、夏侯淵自身も逆茂木の修理を軽装兵で自ら出るなど、どこまでも貧乏くさい少ない兵力をやりくりしている様子が目立ちます。確かに少ない兵力で本陣を離れた事が夏侯淵の運命の分かれ道でしたがそもそも少ない兵力を考慮し劉備の夜襲に備える為に兵を多く本陣に残し少数の手勢で自分が出て士気を鼓舞しつつ修理をするほうが効率的だと夏侯淵は思い当たったかも知れません。兵力が十分にあれば、夏侯淵が自ら修理にあたる必要もなかったのではないでしょうか?
三国志ライターkawausoの独り言
三国志演義にひきずられると、夏侯淵は40万人、劉備は10万人ですが、それは飽くまで演義の話で実際の戦いの兵数ではありません。後には方面軍を組織して、10万単位で兵力を動員できるようになる魏もまだ、この頃には、そこまで兵力の余裕はなかったのです。
まして漢中は曹操が負け惜しみ半分とはいえ、鶏肋と言い捨てた土地優先順位が低くなると考えれば夏侯淵の裁量に期待して最低限の兵力で防がせたと考えた方がリアリティがあるように思えます。やはり、夏侯淵の戦死には、とぼしい兵力がまつわりついているような気がしてならないのです。
▼こちらもどうぞ