蜀の丞相・諸葛亮が北伐の前線・五丈原で亡くなった時、丞相長史の職にあった楊儀が撤退の総指揮をとりました。
将軍・魏延が楊儀の指示通りに撤退することに難色を示したため、楊儀は魏延を置き去りにして先に撤退を開始しました。これに怒った魏延は楊儀の先回りをして撤退の通路を焼き、楊儀との対立姿勢をあらわにしました。こうしてプチ内戦状態となり、魏延が討ち取られて事態は終息しました。三国志演義にもあるこの話。演義の中では二人の不仲な様子は描かれていませんが、正史三国志を見ると、魏延と楊儀がかねてから険悪な間柄であったことが分かります。
水と火のような間柄
正史三国志魏延伝には次のような記述があります。
魏延は士卒をよく養い、勇猛人に過ぎるものがあるうえ、性格も誇り高く、当時の人々はみな魏延にへりくだり敬遠していた。楊儀だけは魏延に対して容赦がなかったため、魏延も楊儀に対してムカついており、二人の間柄は水と火のようであった。
また、費禕伝には次のような記述があります。
軍師の魏延と長史の楊儀は互いに憎悪しており、同席して言い争いになるたびに魏延は楊儀に刀をさしつけ、楊儀は涙を流すようなありさまであった。
二人の最悪に仲が悪い様子が見てとれます。魏延は傲慢なところがあり、楊儀は諸葛亮によれば狷狭な性格であったそうで(楊儀伝)、互いに譲らない二人。ほんの些細なことでいったん食い違ったが最後、未来永劫うまくいく見込みがない相性最悪な二人だったのではないでしょうか。
魏延の暴走
五丈原で諸葛亮が亡くなり、楊儀が撤退の総指揮をとることになったと知ると、魏延はこう言って反発します。
丞相が亡くなられたとはいえ、まだこの私がいる。丞相府の役人たちは帰還して葬式を行えばいい。私は残って軍勢を率いて賊を伐つ。一人の人間の死によって天下の大事を廃していいものか。それに、この魏延ともあろう者が、楊儀ごときの使いっ走りとなりしんがりを請け負うことなどできようか。(魏延伝)
楊儀に命令されるのが嫌だったようですね。これを受け、楊儀は魏延を前線に置き去りにして、自分たちだけで撤退を開始しました。これに怒った魏延は楊儀の先回りをし、楊儀の撤退の通路を焼いて、楊儀との対立姿勢をあらわにしました。楊儀と魏延は互いに相手が反逆を起こしたのだと言い立てる檄文を飛ばしました。
皇帝・劉禅は董允と蒋琬に意見を求めたところ、彼らは楊儀については保証できるが魏延は疑わしいと答えました。(魏延伝)
楊儀のエキセントリックな復讐劇
蜀軍の根拠地・漢中をめざして撤退した両陣営は、漢中盆地の入口である南谷口で対峙します。楊儀の指示をうけた王平が魏延の陣営に向かって「丞相が亡くなられて亡骸も冷め切らないうちからどうしてこのような狼藉をはたらくのか」と叱りつけると、魏延の軍勢は逃げ散ってしまいました。
魏延は息子達とともに漢中をめざして落ち延びて行きました。楊儀は馬岱に追撃させ、馬岱は魏延を斬ってその首を楊儀に届けました。首を受け取った楊儀は、立ちあがって魏延の首を踏みつけて、こう言いました。「ばかめが。もういちど悪さをできるものならやってみろ!」そして、魏延の三族を皆殺しにしました。(魏延伝)
とっくに決着がついているのに、敗れて死んだ相手の首を踏みつけるとは、ずいぶんエキセントリックなふるまいですね。こういうところが諸葛亮に狷狭と言われるゆえんでしょうか。
冷や飯を食わされた楊儀
諸葛亮は自分の後継者について、楊儀は性格が狷狭であるから蒋琬に任せたいと密かに考えていました。諸葛亮の没後、蒋琬は尚書令・益州刺史になりましたが、楊儀は閑職の中軍師になっただけでした。これには楊儀は不満でした。
撤退の総指揮をとり、魏延を討ち、功績がきわめて大きいと考えていた楊儀は、自分が諸葛亮の後継者になるべきだと考えていました。蒋琬はかつて楊儀が尚書だった頃の後輩であり、のちにともに丞相参軍長史となったものの、蒋琬が都にいたのに対し、楊儀はいつも諸葛亮と一緒に従軍して激務をになっていました。楊儀は年齢・官位ともに蒋琬より上であり、また、才能も蒋琬より勝っていると自分で思っていました。このため、蒋琬が後継者になったことに対して楊儀はあからさまに不満げな態度をとり、発言にも節度がなかったため、誰も彼も楊儀のことをシカトしました。(楊儀伝)
楊儀の末路
いつもイラついていた孤独な楊儀を慰めてくれる人が一人だけいました。それは費禕です。費禕に愚痴を聞いてもらいながら、楊儀はぽろりとこんなことを言いました。
「丞相が亡くなった時、軍を挙げて魏延に味方していれば、こんな落ち目にはならなかったものを」友だちづらしてお悩み相談を受けていた費禕は、この発言を皇帝・劉禅に告げ口しました。楊儀はまもなく官位を剥奪され平民に落とされ、漢嘉郡に流刑にされました。楊儀は流刑地から皇帝に誹謗文書を送りつけ、その文言が過激だったため、楊儀は逮捕されました。ここにいたって楊儀は自殺し、妻と子供は流刑地を離れ蜀に帰りました。
三国志ライター よかミカンの独り言
撤退の命令に従えず最期は首を踏みつけにされた魏延と、エキセントリックな言動がたたって自殺に追い込まれた楊儀。生前、最悪に仲の悪かったこの二人は、正史三国志蜀書第十の劉彭寥李劉魏楊伝で二人仲良く並んで伝が記載されています。
劉彭寥李劉魏楊伝は、名声や功績があったものの最期は残念なことになった人の列伝です。魏延も楊儀も、まわりの人たちが上手にご機嫌をとりながら操縦すればものすごくよく働く人だったと思うのですが、その所を得なかったようですね。残念です。
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