権謀術数には長けるが軍事には疎い呂不韋(りょふい)の四柱の一人として、軍事面の頭脳となって活躍した昌平君は、歴史に登場する実在の人物です。しかし、元々が楚の公子として秦へは人質のような形でやってきた彼は色々複雑、そこで「はじめての三国志」では、昌平君の能力と今後を推理します。
合従軍相手に存在感を示せない呂不韋に代わり昌文君と戦略を担当
趙の三大天、李牧(りぼく)の主導した五カ国合従軍、五十万の大軍に秦が絶体絶命の窮地にある時、秦が生き残る可能性について、必死に模索したのが昌平君です。
同じく、四柱の一人、蔡沢(さいたく)の計略で斉を合従軍から離脱させる事は出来たもののそれでも敵軍は50万の大軍なので、昌平君は同じく丞相の昌文(しょうぶん)君や、軍師達と巨大な盤上で徹夜で戦略を練っていました。
その間、相国(しょうこく)という秦では最高のポストにいたボスの呂不韋には、まるで存在感がなく他人事でした。秦が滅んだら、今度は合従軍に取り入ろうとする素振りまで見せています。この様子から昌平君は、単純に呂不韋の駒ではないと直感した人も多かったでしょう。
秦王政即位を区切りに呂不韋と決別・・
呂不韋が、淫乱な秦国皇太后を満足させる為に送り込んだ偽宦官、嫪毐(ろうあい)によりついに太后は懐妊し男児を産みます。これは、秦国に新たな戦乱を巻きおこす前兆になりました。事態を一気に清算すべく、太后は合従軍戦で疲弊して財政難に喘ぐ秦に多額の金銭援助を申し出る代わりに、毐国(あいこく)という半独立国の建設を承認させ、秦王政の加冠の儀の隙を突いてクーデターを決行します。
太后は、実子の政を殺し、嫪毐との間の子を秦王につけようと動きだしたのです、悲しい・・政にとっては身を裂かれるような悲しい戦争になりました。この時、呂不韋は全てを知りながら、知らぬふりをしますが、昌平君は、迷わず秦王政の側についてクーデターを鎮圧します。ここで、昌平君は呂不韋を見限り、秦王政を選んだのです。物事に拘らない呂不韋ですが、この時ばかりは表情を険しくしています。それだけ昌平君を失う事が痛手だったのでしょう。
結局、呂不韋は毐国の成立に深く関わっていた事がバレ失脚します。逆に昌平君は、その功績が評価され、秦国の軍事面を引き続き担当する事になるのです。
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昌平君の実力とは・・
昌平君は、その知略では、李牧にも匹敵すると言われています。彼は人材を好み、秦に軍師学校を開いて、多くの人材を教えました。
その中には、蒙毅(もうき)や河了貂(かりょうてん)もいます。昌平君の軍師学校があったから、飛信隊は軍師、河了貂を得て、勝利を重ねているわけですから、信にとっても、昌平君は恩人です。
また、昌平君個人の武力もかなりのもので、少年時代には、あの蒙武よりも武力で上回りました。現在でも毐国によるクーデターに参加した少数民族の猛将ワテギを自ら葬るなど、武勇は衰えてはいないようです。
昌平君の悲しい未来とは・・
そんな秦にとっては頼もしい昌平君ですが、史実は彼の悲しい最後を記録しています。史実の昌平君は、幼い頃に秦の人質として楚から送り込まれた公子でした。
その楚を秦が滅ぼした時、昌平君は、楚の大将軍、項燕(こうえん)の要請に乗り、秦から逃亡して楚に赴き、自ら即位して楚を復活させます。しかし、王翦(おうせん)・蒙武によって滅ぼされ死んでしまうのです。キングダムは史実を無視しないので、必ず昌平君は秦に背き楚に走る事になるでしょう。
それは紀元前223年、今のキングダムの14年後の事ですが、その時、幼馴染の蒙武はどのような対応をするのでしょう。そして、河了貂は恩師の死をどのように受け止めるのか?
色々な意味で昌平君からは目が離せないですね。
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