横山三国志や吉川英治は孔明が五丈原で亡くなるまでを
三国志の最大の山場と捕らえていたことから、孔明死後の事は詳細には描いていません
孔明死後の三国志も色々あり、
魏では王陵(おうりょう)が司馬懿(しばい)に反感をもって
反乱を計画しますが、色々な原因が積み重なって失敗に終わります。
司馬懿は王陵の反乱を鎮圧した後、病に倒れて亡くなり、
司馬師(しばし)が父司馬懿の跡を継いで魏の政権内で、司馬家の基礎作りを行っていきます。
彼の努力の結果、司馬家の権威は魏の政権内において、
トップの座に君臨することになります。
しかし、司馬師のやり方に不満を持った毌丘倹(かんきゅうけん)は、
司馬師打倒の兵を挙げ、彼を打倒して曹氏に魏の政権を取り戻させようと考えます。
だが、毌丘倹の反乱も司馬師の大軍の前に敗れ去ってしまい、失敗に終わります。
なぜ彼の反乱は失敗に終わる事になるのでしょうか。
今回は毌丘倹の反乱を起こし失敗するまでを紹介してから、
反乱失敗の原因を紹介したいと思います。
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この記事の目次
- 呉軍から魏の領土を守り通す
- 友人である夏侯玄が司馬師に殺害され、恨みを抱く
- 司馬師に不満を持っていた文欽と親しくなる
- 皇后の密書を手作りして、反乱に踏み切る
- 司馬師迎撃の陣を敷く
- 司馬師は病を押して毌丘倹討伐へ赴く
- 毌丘倹包囲網が敷かれる
- 文鴦の戦術眼が冴えわたる
- 最大のチャンスが訪れる
- 司馬師を追いつめるが…兵士が足りずに退却
- 文鴦の奮戦は続く
- 文欽が敗北した事を聞き、毌丘倹も戦わずして逃亡
- 毌丘倹の反乱はなぜ失敗に終わったのかその1:寿春を放棄して出撃したこと
- 毌丘倹の反乱はなぜ失敗に終わったのかその2:中途半端に項県でとどまった事
- 毌丘倹の反乱はなぜ失敗に終わったのかその3:文欽の夜襲が失敗に終わった事
- 毌丘倹の反乱はなぜ失敗に終わったのかその4:呉軍が本気で魏軍に攻撃を仕掛けかなった
- 三国志ライター黒田廉の独り言
呉軍から魏の領土を守り通す
毌丘倹は遼東討伐戦や高句麗(こうくり)地方に割拠していた王を討伐するなど、
軍功を数多く上げ、一躍有名になります。
こうした戦績が認められ、魏と呉の国境にある都市である寿春(じゅしゅん)に
駐屯するよう命じられます。
この時彼は揚州の軍事を行使することができる役職を貰っており、
この軍事権を行使して、呉が合肥など魏の領土へ攻撃を仕掛けてくると、
しっかりと魏の領土を守備して、呉軍に何回も勝利を重ねていきます。
友人である夏侯玄が司馬師に殺害され、恨みを抱く
毌丘倹は友人として親しく付き合っていた夏侯玄(かこうげん)らが、
司馬師に反乱を行おうとしていた罪で、処断されてしまいます。
この時皇帝であった曹芳も夏侯玄達が司馬師殺害を行おうとしていたとして、
彼を帝位から降ろし、新たな皇帝を立てます。
毌丘倹は曹魏に忠誠を尽くしていた夏侯玄が殺害された事を聞くと、
司馬師に恨みを持つと共に曹魏がこのままでは司馬家によって、
乗っ取られてしまうのではないかと危惧を抱くようになります。
司馬師に不満を持っていた文欽と親しくなる
文欽(ぶんきん)は司馬懿に殺害された曹爽達と仲良くしていた事で、
大いに出世していく事になります。
しかし曹爽が司馬懿によって亡くなると、魏の政権内で彼の居場所が無くなってしまい、
居づらくなってしまいます。
この文欽に目を付けた毌丘倹は彼に近づいて、
色々と日頃の悩みや司馬師に対しての不満などを聞いてやることにします。
居場所が無くなっていた文欽は毌丘倹が親しく接してくれるので、大いに感激。
毌丘倹は文欽に「司馬師を打倒し、曹家を中心とした魏の政治を行うため、
反乱を起こそうと思っているのだが、君は一緒に来てくれるかい」と聞かれると
文欽は日頃から良くしてくれる毌丘倹の為に「あんたが司馬家に反乱を起こすのなら、
私もあなたと共に立ち上がろう。」と毌丘倹の反乱に加わる事を約束します。
こうして毌丘倹は文欽から約束を取り付けると大いに喜びます。
皇后の密書を手作りして、反乱に踏み切る
毌丘倹は自分の領内にいる兵士達の士気を挙げる為、
皇后から「司馬師を討伐して、魏の政権を曹家に取り戻してほしい」との
密書が来たと言って反乱を決行します。
実は毌丘倹が兵士の士気を挙げるために見せた密書は偽の密書でした。
彼は反乱前夜、一生懸命皇后の字を真似る為、
何度も何度も字を間違え、皇后の字を真似ながら作ったオリジナル密書を製作します。
このオリジナルの密書がかなりの信用を兵士や将校から得る事となり、
6万人もの兵士が彼の反乱に加わる事になります。
そして彼は本拠地寿春を出撃し、北上を開始。
毌丘倹は寿春を出て戦う事を選びますが、この選択が彼の致命的なミスとなってしまい
この反乱は失敗に終わってしまう事になります。
司馬師迎撃の陣を敷く
毌丘倹(かんきゅうけん)は文欽と文鴦(ぶんおう)親子を引き連れて、
曹操の生まれ故郷の近くにある項城(こうじょう)に駐屯します。
毌丘倹は項城へ入城し、文欽親子は友軍として城外に布陣します。
こうして彼は万全な迎撃を敷き、司馬師がやってくるのを待ちます。
司馬師は病を押して毌丘倹討伐へ赴く
司馬師は毌丘倹が反乱を起こすと、叔父である司馬孚(しばふ)に毌丘倹討伐を任せ、
自らは目の腫瘍を取り除いた後の経過が思わしくなく、療養に専念しようと考えます。
しかし鍾会(しょうかい)らが「司馬師様自ら討伐に赴かないと、毌丘倹討伐が成功しない」と
進言を何度も重ねた為、彼は病の身を押して毌丘倹討伐へ
出陣します。
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毌丘倹包囲網が敷かれる
司馬師は諸将を率いて毌丘倹討伐へ向かう途中、諸葛誕(しょかつたん)に
豫州の軍勢を率いさせて毌丘倹の本拠地である寿春を攻撃するように命じ、
魏の勇将である胡遵(こじゅん)に青州(せいしゅう)と徐州(じょしゅう)の
軍勢を集めさせて、毌丘倹の背後へ回り退路を断つように指示を出します。
こうして毌丘倹包囲網を完成させて、進軍を続けていきます。
文鴦の戦術眼が冴えわたる
文欽は毌丘倹に「項県の近くにある泰山に鄧艾が布陣して、
こちらに攻撃を仕掛けようと企んでおります。
そこで私達が軍勢を率いて鄧艾軍を攻撃して、壊滅させようと思います。」と進言します。
毌丘倹は文欽の進言を受け入れて、反乱の緒戦を勝利で飾り、
兵の士気を挙げようと考えます。
文欽は毌丘倹から鄧艾軍討伐を任されると、陣へ帰って息子の文鴦に
「鴦よ。我らは鄧艾討伐を行うように毌丘倹から指示をもらった。
今から出陣するから、準備をして俺に従え」と命令を出します。
しかし文鴦は文欽に「父上。父上が考えて作戦は良策と言えますが、
鄧艾の陣を急襲すれば、彼は混乱に紛れて姿を消すかもしれません。
そこで私が率いる軍勢は鄧艾軍の背後に回って攻撃を仕掛け、
父上の軍が鄧艾の軍勢の正面から攻め、
挟撃の形を作れば間違えなく鄧艾を捕虜にする事が出来るでしょう。」と提案します。
文欽は息子の提案を受け入れ、軍を二軍に分けて出陣させます。
最大のチャンスが訪れる
文鴦は鄧艾が駐屯している陣に到着しますが、
彼が放っていた偵察者から驚きの報告を得ます。
報告者は「文鴦殿。敵軍は数万の軍勢で駐屯しております。
夜襲は中止するべきではないですか。」と提案を受けます。
しかし彼は「馬鹿な。数万もいるわけがないであろう。」と
報告者の内容を信じませんでしたが、
第2の報告者からも同じような内容の報告を受けます。
そして第3の報告者から「司馬師の軍勢が鄧艾の陣に駐屯しております。」と
報告を受けます。
文鴦は司馬師が鄧艾の陣に居る事は、司馬師を討ち取る最大のチャンスがやってきたと
思い、そのまま夜襲を決行します。
司馬師を追いつめるが…兵士が足りずに退却
文鴦は夜襲を決行して、鄧艾と司馬師の軍勢に夜襲をかけます。
この夜襲は大成功し、魏軍の兵士達は大いに混乱し、指揮系統は乱れます。
文鴦は「大将軍はどこだぁ!!大将軍をだせぇ!!」と大声で司馬師を呼びながら、
敵兵を斬りつつ司馬師の本営を探します。
しかし父文欽の到着が遅れてしまった為、文鴦は司馬師の首を討つことができずに、
夜が明けてきたため、夜襲軍全軍に退却を指示。
文鴦の奮戦は続く
文鴦は司馬師の陣から退却していくと、途中で父と再会を果たします。
文鴦は父に「父上。今から向かっても時すでに遅く、
司馬師の軍勢が追撃を仕掛けてきています。早く退却してください。」と父を焚き付けます。
文欽は「私は呉へ行こうと考えているが、鴦よ。おまえはどうするのだ。」と尋ねます。
すると文鴦は「私はここに残って司馬師の軍勢を食い止めてから、退却します。」と槍を
しごいて数百騎の軍勢を率いて司馬師の追撃軍に突撃を開始。
彼は得意の槍を振り回して、数百人を討ち果たし、司馬師の追撃の速度を鈍らせます。
こうして退いては戦い、退いては戦いを繰り返す事数十回、ついに文鴦は退却に成功し、
父を追って呉へ逃げていきます。
文欽が敗北した事を聞き、毌丘倹も戦わずして逃亡
毌丘倹は文欽親子が夜襲へ出陣した後、本拠地である寿春が陥落したとの報告を受けます。
彼は本拠地が陥落した事を聞くと、このままここに留まっているべきか、
それとも司馬師に決戦を挑むべきか悩み始めます。
彼が悩んでいる間に文欽親子が夜襲に失敗したとの報告を受けると、
兵士を捨てて逃亡を開始します。
毌丘倹は息子達と共に呉へ逃げるべく徒歩で逃走を図りますが、
途中で毌丘倹らを探していた魏の兵士に殺害されてしまいます。
こうして毌丘倹は、司馬師の首を挙げる事に失敗し、反乱は鎮圧されることになります。
毌丘倹の反乱はなぜ失敗に終わったのかその1:寿春を放棄して出撃したこと
毌丘倹(かんきゅうけん)は反乱を起こすと、本拠地である寿春(じゅしゅん)を
捨てて出撃します。
この事が彼の反乱が失敗に終わった原因その1であると考えます。
なぜ彼は寿春から出撃しなくてはならなかったのか。
彼が出撃しなくてはならなかった原因は兵糧にあります。
彼は寿春城には民や役人などをすべて収容させた事で、
6万ほどの軍勢を養う兵糧は無くなってしまいます。
そのため、魏の領土の一大兵糧集積地を狙って攻撃を仕掛けるために、
出撃しなくてはなりませんでした。
このため彼は反乱を行う時期を失敗したといえるのではないのでしょうか。
毌丘倹の反乱はなぜ失敗に終わったのかその2:中途半端に項県でとどまった事
毌丘倹は寿春から出撃すると譙(しょう)の近くにある、項県に駐屯します。
毌丘倹の反乱はこの項県に駐屯してしまった事が、失敗に終わったのか原因その2と
言えるでしょう。
反乱を起こしたのであれば、そのまま魏の首都である洛陽へ向かって、
皇帝を奪取するべきであったと私は考えます。
項県にとどまった所で、味方が増えるわけではありません。
味方が増える可能性があるのであれば、この地に駐屯する意義は大きいですが、
彼らの反乱に同調する勢力は魏の国内でいませんでした。
なれば6万の軍勢を率いて魏の首都へ向けて進軍すれば、
もしかしたら反司馬氏の勢力が立ち上がってくれる可能性があったかもしれません。
毌丘倹の反乱はなぜ失敗に終わったのかその3:文欽の夜襲が失敗に終わった事
毌丘倹の反乱はなぜ失敗に終わったのか理由その3としては、
文欽の夜襲が失敗に終わった事です。
彼が提案した夜襲の計画は大いに成功する可能性はありました。
さらに文鴦が提案した夜襲作戦が採用された事で、
計画通りに進行していれば司馬師の命は文鴦、文欽のどちらかに討たれ、
毌丘倹の反乱は三国志の歴史の中で燦然と輝いていたと思います。
しかし夜襲は前述で説明した通り、文鴦の軍のみで行う事になってしまいます。
もしこの時文欽の軍勢がしっかりと進軍し、文鴦と共に夜襲をしていれば、
上記で説明した通り、毌丘倹の反乱は大成功に終わった事でしょう。
毌丘倹の反乱はなぜ失敗に終わったのかその4:呉軍が本気で魏軍に攻撃を仕掛けかなった
毌丘倹は反乱を起こす前に、呉へ使者を送って援軍を要請します。
毌丘倹の援軍要請を承諾した呉の首脳部は、
孫峻(そんしゅん)は留賛(りゅうさん)などの諸将を率いて、寿春の援軍に向かいます。
この軍勢は諸葛誕が寿春に入った事を知ると、寿春城へ向かわずに呉へ帰還していきます。
この時、孫峻が毌丘倹に使者を送って、共に寿春へ攻撃を仕掛けようと呼びかければ、
毌丘倹の反乱は鎮圧されることなく、魏軍と戦い続けていたのではないのでしょうか。
また毌丘倹が反乱し続けていれば、司馬師の眼の病状が悪化し、
どのような反乱の結末を辿っていたか分からなかったと思います。
三国志ライター黒田廉の独り言
これら上記4つの原因があった事で、毌丘倹の反乱は失敗に終わってしまいます。
もしこの反乱失敗の原因である4つの内どれか一つでも、
失敗した原因を無くしておけば反乱の成功確率は上がっていたと思います。
しかし彼の反乱のおかげで、成功した事もあります。
毌丘倹の反乱によって成功した事とは司馬師が亡くなった事です。
彼はこの反乱を鎮圧させるために、出陣した事が原因で病が悪化し、
毌丘倹の反乱鎮圧後に亡くなってしまいます。
司馬師の死後、弟の司馬昭が兵権を引き継ぐことになり、
魏の政権はほとんど司馬氏の思う通りに動いていく事になります。
「今回の三国志のお話はこれでおしまいにゃ。
次回もまたはじさんでお会いしましょう
それじゃまたにゃ~」
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