私達の中には、知らず知らずの間に西洋的な意識が入り込んでいます。例えば、敗北の合図と言うと無意識に白旗を振る武将や兵士をイメージしてしまうようなものです。
でも、それは西洋の習慣であって、三国志の時代の中国には、白旗=降伏などという概念はありませんでした。では、三国志の時代、負けた側はどうやって降伏を伝えていたのでしょう?
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三国志の時代の降伏 面縛與櫬
三国志の時代の降伏の作法は春秋戦国時代から伝えられた古式床しきもので、面縛與櫬(めんばく・よしん)と呼ばれています。方法は、降伏する側の将軍が自分の腕を後ろ手に縛り上げ、手が使えないようにしていきます。そして、自身の背後に、車で曳いた棺桶を用意して、敵将の前まで行進するのです。
これは、無条件降伏を意味し自分を縛り棺桶を用意する事で、
「殺されても恨みません、どうぞ好きにして下さい」というサインを含んでいます。
降伏を受け入れる側にも必要な礼儀があった。
もちろん、これは、最大の恥を忍んでの行為ですから、敗北を受け入れる側は、礼儀として降将の縄をほどいて、その恥辱の気持ちを和らげる義務がありました。
実際に、三国呉の暴君、孫晧(そんこう)は晋に降伏する際に、建業に一番乗りした晋将、王濬(おうしゅん)相手に、面縛與櫬を行っていますし、劉禅(りゅうぜん)も自分を縛り上げ、棺桶を背負って魏の鄧艾(とうがい)に降伏しているので、割合、ポピュラーな作法だったようです。
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一般の兵士や武将が降伏する場合、肉袒(にくたん)
一方で、君主や指揮官ではない武将や兵卒の場合の降伏の作法は、肉袒と言いました、これは上半身裸になり、武器を隠し持っていない事を証明する降伏の作法でした。この状態で両手を挙げて出てこれば、降伏のサインになりますが、それで命が必ず保障されたかどうかは分かりません。
赤眉の乱で知られる反乱軍、赤眉の指導者の樊崇(はんすう)は、西暦27年、光武帝(こうぶてい)の配下の将軍馮異(ふうい)に追い詰められ、丞相に任命した徐宣(じょせん)以下、30名余りで、肉袒して降伏したと記録されています。
開戦の作法は、どうだったのか?
では、逆に開戦の作法は、どのようなものだったのでしょう。
今だと宣戦布告文を送りつけるイメージですが、三国志の時代は?
これが残念ながら、よく分かっていません。しかし、三国時代から遡る事600年の春秋戦国の頃には、開戦を知らせる作法がありました。
それによると、開戦の合図は、一方の使者が相手の陣営に行き、ヘラヘラと冗談を言ったり、逆に武器を取って勇壮な舞いを見せる事であったと言います。
相手の陣営は、使者の冗談を冗談で返したり同じく武器を取って使者を追いかけると、そこからよーいドンで戦争開始となったようです。
開戦の合図は、不意打ちの禁止だった
つまり、この作法は、私は不意打ちをしません。正々堂々と戦いましょうという意味合いが強いものでした。春秋時代の中期頃までは、何と奇襲、不意打ちの類は、卑怯者がする事だという認識だったのです。
なので、不意打ちや奇襲が当たり前の時代になると、当然、このような紳士協定は廃れていきます。三国志の時代まで、この開戦の合図が伝わらなかったのは、当然と言えば、当然の事なのです。
呑気も呑気、敵の君主に三度も礼を尽くし絶賛された郤至
また、春秋の時代では、敵であっても君主の場合には礼を尽くさないと非礼になるとされていました。晋の郤至(げきし)は、紀元前575年、鄢陵(えんりょう)の戦いで敵である楚の共(きょう)王に戦場で三度も遭遇しましたが、攻撃を仕掛けるどころか、戦車から降りて、鎧を脱ぎ棄てて走り去りました。
今から考えると
「何やってんだよ郤至、チャンスじゃないか!それから、共王、何度も同じ敵の前を呑気にすれ違ってんじゃねえよ!」
なんて思いますが礼を尽くした郤至の態度に、楚も晋の人も賞賛を惜しみませんでした。それでも共王は、この戦で晋の呂錡(りょき)に目を射られて負傷しています。王だから安全という事はないのですが、やはり礼の精神が、戦場では何でもアリだお!という戦の合理性に勝っていたのです。
三国志ライターkawausoの独り言
古代中国では、奇襲が卑怯とされていたというのは、面白いですね。また降伏のサインが、THEビジュアライズなのも面白いです。徹底して自分を卑下して、屈辱が身にしみるような行為で、「とんでもない事をしてもうた~」という自分への戒めや、味方への謝罪の気持ちもあるのでしょう。本日も三国志の話題を御馳走様でした。
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