姓を司馬、名は懿、字は仲達。
河南郡の温県出身で、西暦179年に生まれています。
先祖代々が武門で名を馳せた家柄だということもあり、
司馬という複姓をもったといわれています。
軍師連盟が注目する司馬懿とは
仲達の父親の司馬防は曹操とも懇意の仲で、
洛陽の警視総監を担っていたこともありました。
ちなみに祖父の司馬雋は潁川郡の太守を務めています。
曹操(そうそう)に見いだされて出仕し、
曹操の子である曹丕(そうひ)の教育係を務めました。
その後、侍従、丞相府秘書官、主任参謀、検察次長など歴任しています。
曹丕が即位し、文帝となってからは魏の重責を担うこととなります。
明帝の死後の混迷
曹丕の太子である曹叡(そうえい)が即位し、明帝となってからは、
蜀の諸葛亮孔明との戦いで仲達は出世していくことになります。
周囲を感心させる統率力と軍略を見せつけます。
軍師連盟が一番注目しているのはこの時の孔明、仲達の戦いではないでしょうか。
明帝の頃には遼東の公孫淵が燕王を称して
自立しようとするのを仲達の活躍により、これを討ち果たしています。
景初三年(西暦239年)正月に明帝が35歳の若さで亡くなります。
その後、太子の曹芳(そうほう)が8歳で即位します。
曹叡の皇子はみな早死にしており、
曹芳は明帝の実の子ではないといわれています。
明帝がこの幼い皇帝の補佐につけたのが
曹氏一族の曹爽と官僚勢力のなかで力をもつ仲達でした。
曹爽は曹真の子で、側近には何晏(かあん)や丁謐、李勝などの名士を揃えていました。
曹爽はそれら側近を登用し、
仲達を閑職の太傅に祭り上げて政治の表舞台から遠ざけます。
隠忍自重の司馬懿の日々
曹爽派の李勝が荊州刺史として赴任する際に暇乞いで仲達の自宅を訪れます。
仲達は曹爽との対立を避けて病気と称して自宅に引きこもっていました。
李勝はいわばスパイとして仲達の状態を探りにきたのです。
仲達は迫真の演技で生きた屍を演じます。
粥を口からだらだらとこぼし、李勝が何度も荊州へ行くと云っているのに、
その度に并州は僻地だねと耳が遠い振りまでしました。
李勝は仲達はもう危険分子ではないと曹爽に報告し、
曹爽一派は仲達への警戒を解きました。
電光石火のクーデター
大将軍となった曹爽は幼い皇帝を傀儡とし、
自分勝手な改革を行います。
また、蜀に無謀な戦いをしかけて大損害を出しました。
曹芳即位後の十年後、正始十年(西暦249年)、
正月に明帝の陵墓参拝に曹爽らが出かけたのち、
仲達は皇太后の命令と称して城門を閉じて、
曹爽の罪を数え上げ、罷免を要求するべく上奏文を発表するのです。
予想外の事態に驚いた曹爽は皇帝を擁していながらも挽回の策を練らずに投降し、
監禁され、やがて口実を設けられて処刑されてしまいます。
ちなみにこのとき仲達は丞相に任命されましたが、固辞しました。
これにより国内の勢力図が大きく変わりました。
夏候一族の夏候覇(かこうは)が蜀に亡命したのもこのときのことです。
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曹氏一族へのとどめの一撃
嘉平三年(西暦251年)には曹氏の復活を目指す王淩のクーデターを事前に察知し、
証拠を掴んで王凌を自害に追い込みました。
擁立されていた曹彪も殺害しています。
さらに曹操一族(皇族)をみな曹操時代の都であった鄴に連行し、
人質として幽閉することになります。
だいたいの政敵を倒した仲達はこの年に息を引き取りました。
チャンスを得るまで我慢強く、一度敵に回った相手は決して許さない。
これが司馬懿仲達の特筆すべき能力です。
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三国志ライター ろひもと理穂の独り言
何かを為すとき、コインの表裏のように成功と失敗が入り乱れます。
どんなに上手く事が運ぶと思われる行為も失敗に終わることはありますし、
奇跡的な逆転劇で成功することもあります。
仲達はギリギリまで情勢をうかがい、
感情を押し殺し、チャンスを待つことができるのです。
彼が晩年に起こした政変とも呼べるクーデターは博打のような運に左右されるものではなく、
限りなく成功できるという自信に裏付けられたものだったと思います。
その成功率を高めるべく布石も巧妙で、できることはやる。
プライドを捨ててでも油断を誘う。
勝つためにどこまでも隠忍自重できる能力において仲達の右に出る者はいないでしょう。
軍師連盟など時代が司馬懿仲達に注目し始めています。
彼の過酷さ、我慢強さは今後見直されていくのかもしれません。
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