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【軍師連盟】司馬懿は簒奪をいつから狙っていたの?

2016年10月7日


 

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曹丕皇帝

 

漢王朝四百年の歴史にピリオドを打ったのが

曹操(そうそう)の跡を継いだ曹丕(そうひ)です。

曹操が圧倒的な権力を手にしても皇帝の座につかなかったのに対し、

曹丕は西暦220年10月に中華の歴史上初の「禅譲

という儀式を行って皇帝(文帝)に即位しました。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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曹氏による帝位簒奪

王莽

 

ちなみにこの禅譲という儀式は、古代の伝説に基づいています。

それは、堯が世襲ではなく徳の優れた舜に位を譲り、

舜もまた禹に位を譲ったという伝説です。

後漢最後の皇帝となる献帝が、

その意思で曹丕を有徳の後継者と選ぶはずもありません。

曹丕も献帝の禅譲の詔を三度辞退したという形になっていますが、

あくまでも形式的なものです。

 

曹丕

 

すべては曹丕の思惑、「シナリオ」通りに事が運びました。

平和的な解決とはいえ、

これは前漢を倒し新を立てた王莽と同じような「簒奪」といえるでしょう。

曹丕は、禅譲を正統化するべく、漢の劉氏は堯の子孫であり、

曹氏は舜の子孫であるという話まででっちあげています。

 

文帝の親友・司馬懿仲達

司馬懿

 

曹操より曹丕の教育係に任じられたのが「軍師連盟」の主役である司馬懿仲達です。

当時の曹丕は後継者争いの渦中におり、

ライバルには曹操の才能を強く受け継いだ曹植(そうしょく)がいました。

仲達は曹丕のブレーンとして後継者争いにかかわっていきます。

仲達のアドバイスもあり曹丕は曹操の信頼を高めていき、

西暦217年に曹操は正式に曹丕を皇太子に指名しました。

時に曹丕31歳。曹操はその3年後に息をひきとりました。

仲達は陳羣や呉質と同じように「太子四友」として曹丕に信頼されており、

曹丕が魏王となってからはさらに重用されることとなります。

陳羣(ちんぐん)は曹丕に帝位に就くことを勧めた人物です。

つまり陳羣や仲達が中心となって禅譲のシナリオは作られ、

現実味を帯びていくことになるのです。

 

前例があったからこその司馬炎の即位

司馬炎 はじめての三国志

 

空想上の伝説であった「位の禅譲」がシナリオ通りに実行に移されました。

誰もそれを阻止することはできませんでした。

一番力のあるものが帝位に就いたわけです。

その点において、曹丕はパイオニア的存在です。

父の曹操が成し得なかったことを実現させたのです。

曹丕にとっては圧倒的な存在感を放っていた

父親へのコンプレックスを払拭する唯一の手段だったのかもしれません。

そして、このことが後の災いを曹氏に招くことになります。

力あるものによる帝位の禅譲という前例を作ってしまったということです。

やがて力をつけた司馬氏が権力を掌握していきます。

それは主である曹氏を凌ぐものとなりました。

その時、皇帝である元帝・曹奐に禅譲を迫ることは難しいことではありませんでした。

曹丕や仲達がその道筋を作っていたからです。

西暦265年、禅譲によって晋の皇帝となった司馬炎(しばえん)こそが仲達の孫になります。

 

仲達に簒奪の意思はあったのか

司馬懿

 

司馬氏が帝位に就くことを仲達は考えていたのでしょうか。

仲達は過酷な権力闘争の中心に身を置きながら、しぶとく生き抜いていきます。

時には曹操に睨まれ、絶えず政敵を警戒しなければならない日々です。

そのゴールに帝位を夢見ていたかもしれません。

しかし思いがあってもそのことを誰にも伝えてはいません。

野心が身を滅ぼすことをよくわかっていたからです。

仲達の息子たちの司馬師、司馬昭が跡を継いでいくことになりますが、

我が子にすら帝位を目指せとは伝えていないのです。

仲達は息子たちに、人間の疑り深さを説き、

とにかく他人を信じず慎重に行動するように語ったとされています。

それが仲達が学んできた生き残る術だったのでしょう。

その教えを守り司馬師、司馬昭と着実に力をつけていきます。

司馬氏による簒奪はその流れのなかで生まれてきたものであり、

仮に簒奪を目標に掲げていたら司馬氏は途中で自滅していたに違いありません。

果たしてそれを見越しての仲達の教えだったのか、司馬氏は帝位に就きます。

これが仲達の意図したものであるならばまさに恐ろしい深謀の持ち主といえます。

軍師連盟で仲達が取り上げられるのも頷けます。

 

三国志ライター ろひもと理穂の独り言

ろひもと理穂さん02b 背景あり

 

禅譲を茶番劇とする傾向も少なからずありますが、

今も昔も形式を踏む手続きは大切なものです。

そして形式さえ踏めば皇帝にすらなれるという既成事実を作り上げたのが仲達でした。

曹操が配下のなかで最も警戒した男は、

こうしてまさに曹氏を滅ぼすきっかけを作っていくのです。

海千山千の司馬懿仲達。彼は曹丕の禅譲に携わるなかで、

どこまで先のシナリオまで思い描いていたのでしょうか。

三国志に登場する人物のなかで、最も敵に回すと恐ろしく、

そして手強いのは仲達かもしれませんね。

軍師連盟のなかでの立ち回りも楽しみです。

 

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