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クリスマスの日には三国志の人々は何をしていたの?

2016年12月24日


 

劉備とサンタクロース

 

12月25日は、言わずと知れたクリスマスです。

一般には、キリスト教の開祖、イエス・キリストの誕生日で本来のクリスマスは、

自宅や教会で厳かに祝うものですが、日本では大衆化し、派手なイルミネーションと

クリスマスケーキとフライドチキンとシャンパンと恋人達の夜という新解釈が

浸透して、すっかりお祭り騒ぎになりました。

では、クリスマスなど無縁な三国志の時代の人々は、クリスマスをどのように

過ごしていたのでしょうか?

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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三国志の時代にクリスマスは伝来していたのか?

白馬寺

 

中国においては、仏教は後漢の時代には伝来していた証拠があります。

西暦67年に洛陽に建立された白馬(はくば)寺が最古の仏教寺院です。

では、キリスト教は、いつ伝来したのでしょうか?

 

これは仏教より後で7世紀の唐の時代に、キリスト教の一派である、

ネストリウス派の阿羅本(あらほん)という人が中国にやってきて伝わり、

150年程は不遇でしたが、8世紀には唐朝の保護もあり、

隆盛を極めた事が、781年に伊斯(いし)という人物が長安に建立した

「大秦景教流行中国碑」という石碑から分っています。

 

しかし、この時点で三国志時代から500年隔たっているので、

直接の関係はないと言えます。

 

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元々キリストと関係無かったクリスマス

 

クリスマスと言えば、イエス・キリストの誕生日という見方が一般ですが

実際には、聖書にはキリストの誕生日についての記述はありません。

そもそも、キリストの誕生日は定まっていないのです。

 

孔明 コペルニクス

 

現在では、聖書の記述、天にはベツレヘムの星が輝いたという点から

それを超新星爆発、あるいは彗星のような天体ショーと捉え、

イギリスの天文学者は、キリストの誕生日を紀元前7年、9月15日

とするような説も出ています。

 

そうではない説でも、大体、キリストの誕生日は8月から、

10月くらいで、東方三博士が祝福に来た時のイエスは生まれたばかり

ではなく生誕から60日~120日経過していたと考えています。

いずれにせよ、12月25日がキリストの誕生日とする説はありません。

 

では、どうして、クリスマスなんて行事があるのか?

それは、キリスト教が誕生した当時、ローマでは、太陽神を崇める

宗教が勢力を持っていて、彼等が12月25日を太陽神を祀る

祭日としていたからだと言います。

 

初期のキリスト教徒は、その太陽神の崇拝者を取り込もうと、

12月25日をキリスト教の祭りとして組み込んでしまい、

それが続くうちに、12月25日がキリストの誕生日という事に

なってしまったのが真相である模様です。

 

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クリスマスツリーもクリスマスとは無関係だった!

 

また、クリスマスと言えば、クリスマスツリーですが、

この樅(もみ)の木も、クリスマスとは無関係です。

 

絶対神を信奉するキリスト教徒は、多神教のローマ帝国では迫害され

宣教師は、闘技場でライオンに食われるなど酷い目に遭いますが、

4世紀には、逆に国教化して多数派になりおおせます。

 

そこで、北欧に布教に出た宣教師ですが、そこには樫(かし)の木に

神が宿るという樹木信仰を頑なに守るひとびとがいました。

宣教師達は、なんとか改宗させようとしますが、根強い土着信仰は

無くならないので、彼等が信仰する樫の木を樅の木に代えて

二等辺三角形をしている、樅の木を、父と子と聖霊という

三位一体のキリスト教の教えとして布教したのです。

 

元々、樹木を信仰していた北欧の人々は、それを受け入れ、

次第に樅の木を祀るようになり、ツリーを飾りたてて、

精霊が木から出ないように工夫しました。

これがクリスマスツリーの原型であるそうです。

 

曹操 ガラス

 

それから、樅の木の上に輝く星は、ベツレヘムの星です。

初期のキリスト教はツギハギのパッチワークのように、

様々な宗教を取り込んで発展したのです。

 

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クリスマスイブには、竈を掃除していた三国志の人々

庶民、村人の家

 

では、クリスマスと無関係な三国志の人々は、

12月25日には、一体何をしていたのでしょうか?

四民月令という、三国志の時代の行事を書いた本によると、

12月25日頃には、お正月用の豚を殺して下処理すると書いてあります。

さらに、28日には羊を殺し、正月の二日前には、家を大掃除して

祭具を整え先祖を迎える準備をしていますネ・・

 

随分、ジングルベルから遠ざかり、生々しくなりましたが・・

当時の中国では、お正月メインなので仕方ありません。

 

また、クリスマスイブか、クリスマスイブイブには、

中国では、祭竈節(さいそうせつ)という竈(かまど)の神に関する儀式がありました。

これは道教の影響を受けた儀式で、春秋戦国時代の

孔子(こうし)と王孫賈(おうそんか)の問答にも出てくる古い物です。

 

12月23日、竈の神様は、天帝にその家の状態を報告する為に

天に帰っていくのですが、その際に悪い報告をされないように

竈を綺麗にして、供え物をし、夫婦は円満で家庭は上手く行っていると

天帝様に報告して下さいと竈の神を接待するのです。

 

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三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

こうして考えると、クリスマスは、元々、キリスト教とはまるで別、

様々な宗教をごっちゃにミックスした行事という感じがしますね。

しかし、考えてみると日本人も、神道の神社参拝や、仏教のお盆や、

クリスマスをちゃんぽんで取り入れているので、

元々、ちゃんぽんなクリスマスは、日本人と相性がいいのかも知れません。

 

今日も三国志の話題をご馳走様です・・

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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