三国志の一角を担う「呉」の重臣に陸遜(りくそん)という男がいます。
美男子と描かれることも多く、三国志女性ファンには呉の英雄・周瑜(超イケメンと伝わっています)と
同じくらいの人気があるのではないでしょうか。
周瑜は魏の曹操(そうそう)の大軍を赤壁にて火計をもって破っていますが、
陸遜も蜀の劉備の大軍を夷陵にて火計をもって破りました。実績も充分です。
今回はそんな呉の社稷の臣である陸遜に注目していきます。
海昌県を救う
陸遜は呉郡呉県に生まれ、早くに父を亡くしていますが、
一族の陸康(盧江太守)に従い役人として働き始めます。
21歳の頃には、江東で力を持った孫権(そんけん)に従い、若くして県政をしきるまで出世しています。
陸遜の政治家としての手腕が大いに発揮されたのが海昌県の復興です。
当時は例年のように旱魃が続き、民は苦しんでいました。
陸遜は官倉を解放して民に食料を分け与えます。
しかも一時的な救済では復興は難しいと判断し、自ら率先して農耕や養蚕を盛り上げていきました。
海昌県は陸遜の政治の舵取りによって救われたのです。
山越族討伐
曹操は江東の異民族である山越族と手を結んで孫権を牽制します。
孫権はこのように国の内側に大きな問題を抱えていたため外に侵攻していくことが難しい状態でした。
山越族は孫権が皇帝に就く頃までにだいたい平定されますが、
その際に大きな功績を残したのが陸遜です。
陸遜は、孫権の力を強めるには兵力の増強も必要不可欠であることを見抜いていました。
陸遜は単純に山越族を討つだけではなく、それを吸収することも計画したのです。
これによって孫権は大きな力を有するようになりました。
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私財を投じる陸遜の太っ腹さ
駆け出しの頃の陸遜は、会稽郡の山越族を平定する際に私費を投じています。
山越族の頭目は潘臨という男で、力があり賢かったために誰も退治することができませんでしたが、
陸遜は私費で討伐の志願兵を養いこれを倒しました。
地理に詳しい地元の流民のほうが官兵よりも役に立つからです。
異民族の頭目は次々に変わりましたが、反乱を起こす度に陸遜は私兵を動員して鎮圧しています。
山越族のなかにも陸遜に従ったほうが利口だと考えて志願兵となるものも増えました。
当時の会稽郡太守・淳于式が私兵を蓄える陸遜のやり方を非難し、孫権に告げ口をしています。
孫権は陸遜を呼び出し、事情を聞いて納得しましたが、
陸遜は決して密告した淳于式のことを悪くは云わなかったそうです。
淳于式の行動もまた主君への忠義のものだと考えたからです。
それを聞いて孫権はさらに感心しました。
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孫策の娘を妻にする
この一件もあり、孫権はかなり陸遜に期待していたようで、
兄にあたる孫策の娘を陸遜に嫁がせています。
さらに陸遜の献策を採用し、丹陽郡で曹操と結び山越族を率いる費桟討伐の兵を差し向けます。
責任者は帳下右部督に抜擢されていた陸遜でした。
陸遜は寡兵ながら計略を用いて敵を攪乱し、反乱軍をあっという間に打ち倒します。
呉・会稽・丹陽の三郡の賊を平定するだけでなく、
力のあるものは兵士として徴用し、力の劣るものは民として吸収しました。
一気に国力は高まります。
この働きが認められて、陸遜は対蜀・対関羽の責任者として呂蒙と交代するのです。
陸遜は偏将軍・右部督となりました。
血縁者だからといって簡単には重用はしない孫権に、結果を出して陸遜は応えたのです。
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三国志ライター ろひもと理穂の独り言
このように陸遜は将としても活躍をしながら、
政治家としても将来を見据えて有効な一手を数々打っています。
また、孫権は能力を持っているものと人柄に優れたものしか重く用いなかったと云われますが、
陸遜はその両方を兼ね備えていました。
やがて丞相にまで登りつめる陸遜。
これは政治家としての力量を認められての起用に違いありません。
陸遜は「政治家としても優秀だった」と私は考えます。
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