紀元前221年、中国は秦の始皇帝によって統一され、500年に及んだ戦乱の時代は集結した、、かに思えました。
しかし、始皇帝は、天下統一もまもない間に、空前の大土木工事を幾つも起こし、人民を徴発して働かせます。
この記事の目次
始皇帝のワガママが度が過ぎている
それは、万里の長城の建設であり、始皇帝の墓である驪山(りざん)陵の建設であり、皇帝の宮殿である阿房宮(あぼうきゅう)の建設でした。100万人規模の人民が動員され、人民は疲れ果てて、次第に始皇帝への恨みが募っていくようになります。
秦の崩壊までのカウントダウン
紀元前210年、始皇帝は死去、それと同時に、秦帝国打倒の動きは一気に加速していく事になります。
その口火を切ったのは、陳勝(ちんちょう)という農民の男でした。彼は、役人の命令で、地元から万里の長城建設の人夫を引きつれていました。しかし、折からの長雨で期限までに人夫を到着させられない事が明らかになります。この場合でも苛酷な秦の法律では責任者には死刑が待っています。
陳勝は理不尽な秦の法律に激怒して人夫を集めて、こう呼びかけました。
「王侯将相、いずくんぞ種あらんや!!」
「王や大臣、将軍達がどれだけ偉いって言うんだ!!」という意味です。陳勝には、演説の才能がありました、長年虐げられた人民達は、陳勝の言葉に火をつけられ、口ぐちに不満をぶちまけます。
「行くも死刑、逃げるも死刑、どっちみち死刑なら暴れるだけ暴れて死んでやろうぜ、そうだろう皆!!」
こうして、陳勝に率いられた人夫1000名は、まず引率の秦の兵士を殺害して、武器を奪うと近くの都市に攻撃を仕掛けてこれを陥落させます。
こうして誕生した秦への反乱軍は、またたくまに人数を増加させます。たった半年で陳勝は100万の大軍を率いる王になり、自らを張楚の覇王と号して、今にも秦帝国を撃ち滅ぼさん勢いになります。
陳勝軍の誤算
ところが、100万まで膨れ上がった陳勝軍は、内部の統制が取れなくなります。
部下には、勝手に王を名乗って独立した行動を取るものが出てくる有様、陳勝は、綱紀粛正の為に部下を幾人も処刑、それが陳勝の求心力を低下させます。
秦では、名将章邯(しょうかん)が秦軍を組織して陳勝軍を各個撃破します。陳勝は、包囲された城から逃げようとして部下に首を斬られ死亡しました。ですが、陳勝によって上げられた打倒秦王朝の狼煙は、陳勝が死んだ位では消せない程に燃え広がっていたのです。
項羽ここに現る
陳勝の死後、反秦連合軍を率いたのは、項梁・項羽が率いる楚軍でした。
楚という国は、秦の将軍、王翦(おうせん)によって滅ぼされますが、楚の大将軍である項燕(こうえん)は、死ぬ直前に「例え、残り三戸になろうとも秦を滅ぼすのは楚である」と言い残して自決します。「三戸とは僅かに三家族になろうとも」という意味です。
滅ぼされた6国にとって、項燕の言葉は有名であり、楚人もまた、秦を滅ぼすのは、自分達であるという強力な自負がありました。項梁と項羽は、この項燕大将軍の血縁であり、名門の貴族だったのです。さらに項梁は、陳勝のように自ら王を名乗らず、楚王の末裔を探して王位に就けて、楚の懐王とし楚国を再興しました。
これにより、陳勝の挙兵にも反応せずに行動を自重していた、旧6カ国の名将や有力者達も項梁の軍勢に参加します。
こうして、バラバラに蜂起していた、反秦連合軍は、項梁と項羽の旗の下に一本化していったのです。項梁の甥である項羽は、策士の項梁と違い、武勇に優れた将軍であり、反秦連合軍に従わない勢力や、秦軍を何度も撃破して勇名を轟かせます。
また、この反秦連合軍には、沛(はい)という小さな県の支配者として、連合軍に参加した劉邦という百姓出の人物も在籍していました。
三国志への布石、劉邦と劉備の関係性について
三国志の主人公である劉備玄徳は、この劉邦の遠い末裔です。劉邦は、武勇はなく、戦も下手でしたが、人を認めて任せきる親分の風格があったので、次第に人望を集めます。
元々、劉邦は項羽より遥かに格下の将軍でしたが、秦の帝都である咸陽を項羽よりも先に、しかも無血で落とした為に項羽に並ぶ名声を得て、二人は対立していくようになります。
叔父の項梁が戦死した後、項羽は秦を滅ぼして天下を統一します。しかし、それと同時に立てていた楚王を辺境に追放して殺害。自ら西楚の覇王を自称して秦に代わり中国全土を支配します。
ところが、項羽は多くの領地を自分で独り占めし、命懸けで働いた諸侯には、僅かしか領地を与えなかったので諸侯は憤慨し、自国に帰ると、早速反項羽の軍勢を起こして反逆しました。
項羽は、自分に反逆したものを許さず、大軍を率いて撃破します。その状況を見て、漢中という辺境に赴任させられた劉邦も、反項羽の軍を上げ、漢という国を立てて、項羽の楚に対抗します。
項羽は敵意剥きだしで劉邦の漢に向かってきて、これを撃破しますが、劉邦は逃げ、その度に軍勢を補給して体制を立て直します。
内政の名人、䔥何(しょうか)について
劉邦には、䔥何(しょうか)という内政の名人がいて、関中という穀倉地帯から、兵力と食糧を補給し続けていたのです。
それ以外にも劉邦には、戦争の天才である韓信、そして、後の諸葛孔明に匹敵する軍師と呼ばれる張良(ちょうりょう)という外交と計略の達人が配下として仕えていました。
劉邦の周りには有能揃い
劉邦は、これらの天才を駆使して、圧倒的に不利な武力のハンディを補いました。一方の項羽にも、笵増(はんぞう)という老軍師がいたのですが、項羽は、范増の献策に耳を貸さず、最期には、劉邦のスパイ呼ばわりして、自軍から追い出してしまいます。
項羽の呆気無い最期
范増は、呆れ果てて「豎子(じゅし)共に謀るるに足らず、、」と呟いて項羽の下を離れていきました。意味は、「クソガキめ、お前と共に大事が謀れるか」という悪口です。
このように項羽は自分を信じる気持ちが強く、他人を重く用いる事がない為に次第に孤立し、最期には劉邦に追い詰められ自害して果てます。紀元前202年、劉邦は、遂に天下を統一し漢の初代皇帝になります。500年に渡って続いた戦乱の世はここに集結しました。
前漢時代の幕開け
これが200年続く前漢時代の幕開けです。劉邦は百姓の出身で、秦による圧政を知っていたので、大掛かりな土木工事を行わず、人民を休ませる事に徹しました。その期間は50年にも及び、疲弊していた中国は力を取り戻していきます。
前漢の7代皇帝武帝は、この国力を背景に、万里の長城を超えて侵入する騎馬民族匈奴(きょうど)の征伐軍を何度も組織し、匈奴の勢力を後退させる事に成功
前漢時代のその後
こうして、西域と直接繋がった漢は、シルクロードを通じて西はローマ帝国とも交易を行い世界帝国へと発展していきます。しかし、前漢は、内部では、劉邦の妃であった、呂后(りょこう)の専横で、劉氏の一族が尽く殺戮されるなど、皇帝を守る皇族の基盤が甚だ弱いという弱点がありました。
その為に武帝の没後、無能で平凡な皇帝が続くと、皇帝の妃の親族である外戚と、皇帝の使用人である宦官の勢力争いが激化していきます。そして、外戚の重臣、王莽の登場で、14代皇帝が退位させられ、新という国が建国されると、前漢は崩壊するのです。
次回記事:頓挫する王莽の新と、後漢王朝の復活
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