献帝(けんてい)が生きている頃からフライングで皇帝に即位し、
後世の歴史家から悪逆無道のレッテルを貼られた、はちみつボーイ袁術(えんじゅつ)。
どんな史料でも口汚く罵られる宿命を背負った袁術ですが、実はその袁術を
やや庇った人物がいます、それが何を隠そう天下人曹操(そうそう)だったのです。
前回記事:【三国志都市伝説】袁術は曹丕より先に禅譲を考えていた?
西暦210年、魏武故事に出てくる曹操の自叙伝
曹操は西暦210年の十二月に己亥の布令を出しています。
ここで、曹操は青年の頃から、これまでの自分の人生を振り返り・・
早い話が自ら望んだ事はないのに、思いがけず神霊の導きでこのような地位に
上りつめてしまった、というような自叙伝を書いています。
これは恐らく、位を勧めて魏公になれという部下の押しあげを謙虚にかわし
皇帝の権威をカサに好き放題しているという世間の不満に対して、
それとなく弁解したようなものでしょう。
その中で曹操は必然的に袁術に触れるのですが、その記述が袁術を若干、
擁護しているように見えるのです。
嫌がる袁術を周りが皇帝にしたように見える記述
さて、以下、曹操が袁術を庇っているように見える記述です。
抜粋――
私は兗州を支配して黄巾を破って青州兵三十万の軍勢を投降させた。
その頃、袁術が九江で僭号し、その配下は皆な帝臣と名乗り、門を名付けて
建号門とし衣装は皆、天子の制を為し二人の婦人は皇后の地位を争った。
準備は万端整ったので袁術に対して「帝位に即いて天下に号令すべき」と
勧める者があったが、袁術は「曹操がまだ生きているダメだ」と拒否した。
後に私が袁術を討って四将を捕縛し、軍勢を壊滅させたので袁術は困窮して、
やがて死んでしまった。――終了
僭号(せんごう)というのは、分不相応な地位に就く事を意味していますが、
以下の文脈から考えると皇帝ではありません。
おそらく、臣下の身の上からいきなり皇帝という無作法をはばかり、
公か王になって帝位への段階を踏んだのでしょう。
さらに、その後の文章を見ると、袁術の部下は呆れるどころか、
嬉々として帝の家臣を名乗り、門を造って建号門と名付けて、
衣装は天子の制にしてしまい、袁術の妃二人は、皇后の地位を争うなど
かなりノリノリで嫌がっている様子がありません。
これは、陳寿が正史で記しているような、袁術だけが即位に大乗り気で、
群臣は覚めているのとまるで正反対の書かれ方です。
そして、袁術の部下が袁術に「皇帝として天下に号令して下さい」と言っています。
それに対して袁術は大喜びで応じるどころか「曹操が生きているからダメだ」
と答えて、警戒心を失っていないようです。
結果として袁術は帝位について、曹操に滅ぼされるのですが、
曹操の回想録では、袁術は部下に担がれているようにも見えます。
曹操は等身大の袁術を知っていた・・袁術の真実。
曹操は袁術と同時代を生きていますし、ライバルなので持ちあげる必要はありません。
その曹操が袁術を、まるで周囲に持ちあげられて皇帝に即位したかのように
書いているのは、特筆に値する事だと思います。
よくよく考えてみると、西暦190年代は、袁紹が劉虞(りゅうぐ)を立て、
天子を二名にしようとしていたり、献帝が李傕(りかく)・郭汜(かくし)の追手から、
洛陽に逃れて困窮しても、諸侯は誰一人救援に来ない程に漢王朝は落ちぶれています。
むしろ、曹操が献帝を保護し、袁紹を破った西暦200年辺りから
曹操の権力を背景にして献帝の威光も増してきたのではないでしょうか?
そう考えると、袁術の配下が後漢の皇帝を軽んじて、袁術を担いで、
フィーバーしていた理由も分かりますし、逆に袁術は元々、尊皇心が厚い分は、
帝位を名乗る事に一定の躊躇(ちゅうちょ)があった事も窺えます。
※実は、尊皇心が厚かった袁術については、こちらをclick↓
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三国志ライターkawausoの独り言
袁家は、董卓(とうたく)に大半を殺され、生き残った袁術、袁紹も滅んでしまったので、
どんなにヒドイ書かれ方をしても歴史家は、誰にも恨まれません。
そこで、悪い事は全て袁家に被せてしまっている節があります。
ですので、逆に、こういう曹操の回顧録に信憑性を感じるのです。
何故なら、曹操の布令を都合よく捏造するわけにはいかないので、
そのままの曹操の感想が残っていくからです。
袁術に帝位への野心が無かったわけではないですが、むしろ、その配下の方が
激しく袁術が帝位に就く事を望んだという可能性は高いと思います。
そもそも王族を除けば、最も皇帝に近いのは袁家だからです。
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