※こちらの記事は「大戦乱!!三国志バトル」専用オリジナルコンテンツです。
三国志には、さまざまな奇人、変人が登場しますが、
今回、取り上げる禰衡(でいこう)に匹敵する人はさすがにいないと思います。
禰衡は三国志随一の毒舌家であり、自分より劣ると見た人間は徹底して罵倒し
天下人曹操(そうそう)さえもコケにして、最期はその毒舌故に命を失いました。
それでは、数々の変人エピソードに彩られた禰衡の伝説を見てみましょう。
この記事の目次
三国志最強の奇人 禰衡は青州平原郡に産まれる
禰衡正平(でいこう・せいへい:173~198年)は、青州の平原郡に生まれます。
少年の頃から聡明な人物として評判でしたが、その才能を鼻に掛けて他人を見下し、
しかも、その罵倒が容赦なく徹底していたので、あっという間に嫌われ者になりました。
西暦195年頃、禰衡は青州の争乱を避けて荊州に遊学にやってきます。
折しも、その頃、曹操は献帝を許に迎え帝都の建設を着々と進めていました。
帝都のインフラが整えば、後は都に相応しい人材を求める事になりますので、
禰衡も人からの紹介状を懐に許にやってくる事になります。
許に来ても宿に居座り、アポも取らない禰衡・・
ところが、禰衡は許についても宿に入り浸って酒を飲むばかりで
曹操の重臣達と、アポイントを取ろうとさえしません。
その内に竹簡に書かれた紹介状の文字の墨もかすれようとしていたので、
心配したある人が尋ねました。
「あんたは仕官しに来たんだろう?
アポを取ろうとしないんだ」
すると禰衡は
「あんたは俺に酒売りや豚殺しのような卑しい連中に
頭を下げろというのか!」と言い返しました。
さらにその人に
「ではあんたは、今の世の中で一角の人物は
誰だと思うね?」と聞かれると禰衡は
「まあ、ミドルでは、孔融(こうゆう)ヤングでは
楊脩(ようしゅう)がいるだけだな」
などと、素っ気なく答えました。
曹操はカス!部下はただのゴミと言いたい放題
「それはオカシイ、許には曹操、荀彧(じゅんいく)趙融(ちょうゆう)の三名がいて、
彼等も、孔融や楊脩に負けず、抜きん出ているではないか?」
その人が反論すると、禰衡はさらに毒舌を炸裂させます。
「曹操は大した人物ではない、私から見ればカスだ
荀彧は背が高く、見てくれが良いから葬式の弔門くらいには使える
趙融は食いしん坊のデブだから、キッチンで包丁を奮えば
店は繁盛するだろうさ」
この問答が許では評判になり禰衡は時の権力者を
遠慮なく批判した名士として有名になりました。
もちろん、バカにされた曹操の重臣達は歯ぎしりしましたが
ここで禰衡を殺せば、自分の器量の小さい事を暴露する事になるので
何とも出来ず、悪口に耐えていました。
奇人の禰衡を変人の孔融が絶賛し曹操に推挙する
しかし、類は友を呼ぶというべきか、許にやってきた禰衡を絶賛する人物がいました。
宮廷で少府(しょうふ)という九卿のランクにいた孔融(こうゆう)です。
この孔融も、ああ言えば孔融と呼ばれる程の屁理屈男、孔子の子孫で学問は出来ますが
歯に衣着せぬ諫言好きで、最期には曹操に疎んじられ殺害される程の変人、
禰衡の評判を聞くと親しく交際して、事もあろうに曹操に推挙します。
「禰衡は性質明るく謙虚で、才能は抜きんでています。
芸術と文芸を精力的に学んでその奥義を掴んでおり、
一度目にすればすぐに口ずさみ記憶力抜群です。
行動は道義に叶っていて、心の中に神が棲むようで
桑弘羊(そうこうよう)の計算術や張安世(ちょうあんせい)の暗算も
禰衡を基準にすれば、それほど凄いとまでは申せません」
このようなベタ褒めの上奏を行い、曹操に禰衡を召し抱えるように
進言したので、曹操も何度か招集したのですが、
禰衡は余計なお世話と舌打ちし「私は気がオカシクなりました」と言って
言い逃れていました。
ワォ! 禰衡 曹操や重臣の前で産まれたままの姿に
ところが禰衡、出仕はしない癖に曹操と重臣達の悪口は、出放題のやり放題です。
どんなツンデレだよと思いますが、それを聞いた曹操は、一つ禰衡に恥をかかせ
懲らしめてやろうと思い立ち、禰衡を八月の朝会後の宴会で太鼓係に任じます。
「あなたは、太鼓の名手だと自慢しているようだが、一つ腕前を披露して欲しい
まあ、自信がないなら、強いてまでとは言わないが・・」
曹操の狙い通り、天邪鬼(あまのじゃく)な禰衡は、大宴会の日に正装でやってきて、
秘伝の漁陽参檛(ぎょようさんか)を絶妙なバチ捌きで演じてみせました。
その演奏を聞いて、感嘆しない人はいなかったのですが、その中で一か所だけ
禰衡がミスしていたのを楽官が咎めて、別室で衣類を改めるように命じます。
当時は、太鼓を打ち間違えると、衣服を着替えてやり直すマナーだったのです。
それを聞くと、禰衡の目がキラリと光り、その場で衣服を脱ぎだします。
そして、フンドシまで取り外すと、産まれたままの姿になり、
「どうじゃ!」とばかりに周辺に見せびらかしました。
儒教道徳では、人前で肌をさらすのは、礼に反する事で破廉恥な行為でした。
当然、重臣達は顔をしかめて、禰衡を蔑みますが、禰衡は堂々とし、
楽官が用意した衣服にその場で着替えて、悠々と太鼓を打ちました。
それを見た曹操は、禰衡の機知に感嘆し
「余は、禰衡に恥をかかせようと思ったが、逆に恥をかかされたわい」
と笑っていたようです。
禰衡、孔融に叱られ、曹操との会見を承知する
しかし、それを知った孔融は禰衡を叱りつけます。
「折角、曹操に渡りをつけようとしているのに、何をカブいているのか!」
頼みもしないのに、なにを恩着せがましい事をと禰衡は思いますが
孔融とは年齢を超えたブラザーの関係なので、怒ったりせず、
「分かった、兄弟の顔を立てて曹操に会おう」と約束します。
孔融は大喜びで、曹操に急いで上奏し、
「禰衡がついに仕官してくれるそうです!
ついては十月の朝会にセッティングを」
とアポイントを取り、曹操も大乗り気になりました。
ああ、それなのに・・禰衡は最期まで禰衡だった
約束の期日になりました、曹操は、そわそわし会見のセッティングを整え
奇人の禰衡を門番が追い返す事がないように、禰衡の容貌と性格を伝え、
決して失礼がないように釘を刺すなど念を入れて、待ちましたが、、
太陽が真上に来ても傾き始めても、禰衡は現われません。
やがて日没間近になると、世にも薄汚い姿をした男が杖を持って
曹操の屋敷に出現し、門番の前に座り込んで、杖で地面を叩きながら、
罵詈雑言を喚いて、曹操をバカにし始めました。
「曹操のチビ! 宦官の孫! ケチ! 足が臭い! 女たらし!
お前が天下人だなんて漢人の顔汚しだ!」
門番はもしやと思い、曹操に連絡します。
曹操が物見台から様子を見ると、汚い姿の男は、果たして禰衡でした。
「おのれ!このクソガキっ!ここまで余を愚弄するかっ!」
あんなに丁重に礼を尽くしてやったのに、、曹操の忍耐ももう限界です。
この場で斬り捨てようとも思いますが、殺せば禰衡は権力者に挑んだ英雄になり
曹操は小心な独裁者にされてしまいます。
「小僧めが、お前など刀にかける価値もない、ただちに劉表に送りつけてやる」
曹操は、屋敷から騎兵を数騎飛び出させると、禰衡を捕えて縛り上げ、
馬に乗せて、そのまま荊州の劉表の元へ送り届けてしまいました。
口は災いの元の見本、禰衡 黄祖に斬られ生涯を閉じる
荊州に流された禰衡は荊州牧の劉表(りゅうひょう)には、好感を持ち取り入りました。
しかし、その臣下については相変わらず毒舌を吐き、嫌悪感を隠しませんでした。
そこで、劉表の臣下は怒って結託し、禰衡を讒言します。
「禰衡は、殿を周の文王を上回る名君だと申しました
ですが決断力がないので、その野望は頓挫するとも言っています」
それを聞いた劉表は真実を突いているので、余計に不愉快になり
よく調べもせず、禰衡を遠ざけます。
失望した禰衡は、そのうちに黄祖(こうそ)の息子の黄射(こうしゃ)と親しくなり、
連れだって江夏に移動していきました。
黄祖の下でも、禰衡は最初猫を被っていたので、黄祖に重んじられますが、
彼の毒舌は病気のようで、しばらくすると、また言いたい放題が始まります。
機嫌を損ねた黄祖は立腹し、禰衡を部下に引き渡し斬首するように命じます。
運が悪い事に、この部下も禰衡に罵倒された事があり、禰衡を憎んでいて、
少しも躊躇せず首を刎ねてしまったのです、享年二十五歳でした。
禰衡は、首が落ちる寸前まで黄祖を罵倒し続けていたと言われます。
黄射は鸚鵡洲に禰衡の亡骸を埋葬した
殺された禰衡の亡骸は、黄射が鸚鵡洲(おうむす)という河が見える所に葬りました。
ここはかつて、黄射が禰衡を招いて宴会をした時に、黄射に鸚鵡を献上する人がいて
黄射が禰衡に鸚鵡を題にした漢詩を頼み、禰衡がよどみなく筆を走らせた場所です。
奇人・変人・露出狂?曹操をコケにして歴史に名を刻んだ禰衡(でいこう)
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