諸葛孔明(しょかつこうめい)のお兄さんとして知られ孫権に仕えた諸葛瑾(しょかつきん)。
孫権は関羽(かんう)が荊州(けいしゅう)を北上して魏へ攻撃をかけたと知ります。
すると孫権は劉備との同盟を破棄して、
魏と手を結んで長年の宿願であった荊州を手に入れます。
このことを知った劉備は激怒して孫呉を討伐するべく軍勢を整えます。
孫権は劉備が孫呉へ攻撃を仕掛けてくる準備をしていると知ると
諸葛瑾(しょかつきん)に蜀と和平できるように何とかしてくれないかと要請。
諸葛瑾は孫権の命令を受けることにしますが、
孫呉に恨みを晴らそうと息巻いている劉備に対してどのような事をしたのでしょうか。
そして諸葛瑾の苦労とは一体何なのでしょう。
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この記事の目次
諸葛瑾の外交実績とは・・・・
諸葛瑾は劉備が孫呉を討伐するのを思いとどまらせる為にどのような事をしたのか
ご紹介する前に諸葛瑾の外交における実績をご紹介したいと思います。
孫呉は赤壁の戦いで劉備と同盟して曹操軍の大軍を撃退。
その後劉備は南荊州を孫権から借りて益州(えきしゅう)を攻略することに成功します。
孫権は劉備が益州を手に入れたことを知ると諸葛瑾を劉備の元へ派遣して、
荊州を返還するように要請。
劉備は諸葛瑾がやってくると
「荊州を返還するのは涼州(りょうしゅう)をとってからじゃないとできない」と
荊州の返還を拒否します。
諸葛瑾は劉備と荊州返還の交渉を重ねますが、
劉備が荊州を返すことを承諾しなかった為交渉は失敗に終わってしまうのでした。
なんだ諸葛瑾って外交官としての能力なくないと思う方もいるかもしれません。
しかしここからが諸葛瑾の外交官としての力を見せつけるのです。
荊州問題で孫権と劉備の関係が悪くなるが・・・・
孫権は諸葛瑾から劉備が荊州を返還する意思が無いことを知ると激怒し、
兵を派遣して実力で荊州を奪おうとします。
劉備は孫権が荊州を奪おうとしている事を知ると
駐屯していた関羽に荊州を守るように命令し自ら兵を率いて荊州へ向かいます。
こうして孫呉と劉備は荊州の帰属問題を巡って一触即発の事態に突入。
しかしある人物のねばりつよい交渉と国外の状況によって問題が解決されることになります。
まず粘り強い交渉を行った人物をご紹介しましょう。
その名を魯粛といいます。
魯粛は荊州を支配していた関羽と粘り強く交渉した事で、
荊州問題解決の糸口を見出されていきます。
そして国外における状況変化が発生。
国外における状況を変化させた要因は曹操がきっかけでした。
曹操は劉備が益州を領有したことに危機感を感じ、
益州の要衝となっている漢中へ攻撃を仕掛けようと出陣します。
劉備は魯粛の粘り強い交渉と曹操軍の出陣による状況変化によって、
孫権へ荊州の一部を返還する事を約束。
孫権は劉備から荊州の一部の都市を返してもらったことで満足し、
荊州帰属問題が一時的に解決することになります。
あれ!?諸葛瑾ほとんど名前すら出てこないじゃん。と思っている方もいるでしょう。
しかし諸葛瑾はここから活躍するのです。
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アフターケアーで大活躍
孫権は劉備と本格的に仲直りするため、諸葛瑾を再度益州へ派遣します。
諸葛瑾は劉備の元へやってくるとしっかりと同盟の再確認をすると共に、
孫呉と益州両国の友好関係を結ぶことに成功します。
孫呉と劉備は荊州帰属問題で外交関係がこじれてしまいますが、
魯粛のおかげで劉備との問題を決着をつけることができ、
諸葛瑾のアフターケアーによって元の同盟関係を保持することができたのです。
諸葛瑾はこのように地味ですがしっかりと堅実な外交を行って実績を挙げてきましたが、
関羽を殺されて孫呉に復讐を行うと決意している劉備に対して、
一体どのような外交をしたのでしょうか。
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諸葛瑾が夷陵の戦いを回避するために行った外交とは・・・・
諸葛瑾は孫権から「なんとか劉備が孫呉へ攻め込んでこないようにしてくれないか」と
要請されます。
諸葛瑾は孫権の要請を受け入れて劉備の陣営に言って説得しようと考えますが、
もし劉備軍が攻めてきた場合、
自らが守っている城の防備を整えることができない事を考慮してある外交作戦を行います。
それは・・・・。
手紙を劉備に直接送ることでした。
諸葛瑾は劉備へ「最近聞いたのですが陛下が孫呉との国境近くにある永安へ
大軍を率いて入城したと聞きました。
また私は陛下が永安に大軍を率いて入城した理由も聞き及んでおります。
陛下の家臣達は陛下へ「孫呉が荊州を奪って関羽を殺害したから孫呉討伐をするべきだ」
と家臣達が騒いでいるのが原因だそうですね。
しかしよく考えてください。
昨年魏の曹丕(そうひ)は後漢王朝の皇帝・劉協(りゅうきょう)陛下を殺害しましたが
関羽の命どちらが重いでしょうか。
また天下と荊州どちらが大きいでしょうか。
陛下にはこれらをしっかりと考えていただき
孫呉と戦うよりも優先してやるべき事を思い出して頂きたいと思います。」と手紙を書きます。
劉備は諸葛瑾から届いた手紙を一読した後破り捨ててしまうのでした。
諸葛瑾が一生懸命作った劉備への手紙は実を結ぶことなくゴミ箱へ行ってしまうのでした。
そしてここから諸葛瑾の苦労が始めるのです。
「周りから裏切ってんじゃね」と疑われる
諸葛瑾は孫権に劉備へ孫呉に攻撃している場合じゃない事を手紙で伝えたと報告。
孫権は諸葛瑾の報告を聞いて「ご苦労」と労うのでした。
こうして任務を達成した諸葛瑾ですがここから苦労が始まります。
孫権の部下の将軍達は諸葛瑾の弟・諸葛孔明が蜀の丞相であることから、
「蜀が攻め込んできたら諸葛瑾裏切るんじゃね」と噂が立ちます。
この噂は孫権の耳にも入ってくるのでした。
孫権はこの噂の元凶となった武将を呼び出して「子瑜(しゆ=諸葛瑾の字)は、
俺と深い絆で結ばれているのだ。
だから子瑜が俺を裏切らないように、俺も子瑜を裏切らないんだ。
だからくだらない事を言うな」と激怒するのでした。
こうして諸葛瑾が蜀に裏切るかもと言われていた噂は、
断ち切られたかのように思えましたが・・・・。
噂はこれだけで終わりませんでした。
陸遜の元にも疑心暗鬼の声が届く
陸遜は諸葛瑾が蜀へ裏切るのではないのかと将軍達が騒いでいるとの噂を聞きます。
この噂を聞いた陸遜はすぐに孫権へ「孫権様。諸葛瑾が裏切るという噂を聞きました。
諸葛瑾は孫呉に忠誠を尽くしており、裏切る事などありません。
このことは私が保証します。
どうか孫権様からも諸葛瑾へ安心できるような言葉をかけてもらえませんか。」と進言。
孫権は陸遜からの手紙を呼んで諸葛瑾へ渡してしまうのでした。
そして孫権は陸遜へ「子瑜は長年俺に仕えてくれており、
俺と子瑜の信頼関係は深いものになっている。
昔子瑜の弟である孔明が孫呉にやってきた時に俺が『どうして孔明をここに引き止めないのだ。
兄である君が孫呉に仕えているのだから弟が孫呉に仕えるのは当然じゃないか。
もし孔明が君のところにとどまるのであれば、俺が劉備へ一筆書いてやる』と。
そしたら子瑜は「孔明と劉備は礼式に法った君臣関係を築いており、
孔明が私の元にとどまって孫呉に仕えるようなことはしないでしょう。
それは私が劉備の元へ使者に行って、
孫呉に帰ってこないことと同じですから」と言ってきたのだ。
この事があってから私は子瑜を信頼し子瑜も私を信頼してくれている。
だから子瑜が私を裏切る事など絶対にありえないのだ。
君が送ってくれた手紙もすぐに子瑜に渡しており、
君の気持ちを理解してくれているはずだ」と返信を送るのでした。
諸葛瑾は劉備に手紙を送っただけでこれだけ周りから疑われることになるなんて、
非常に苦労したと思いませんか。
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諸葛瑾は劉備の元に使者として趣いた時には、
公式の場で孔明と語り合うことをしないばかりか、
外交の用事を済ました後も弟・諸葛孔明と語り合うことをしなかったそうです。
なぜこのような事をしたのか。
それは諸葛瑾がもし弟と非公式の場でも仲良くしていれば、
孫呉の人々に疑われてしまう可能性があったからでしょう。
このように諸葛瑾は万全の配慮をしていたにも関わらず、
劉備に手紙を送っただけで味方から疑われてしまうなんて非常に可哀想であり、
苦労をしたのではないのかなと思います。
参考文献 ちくま学芸文庫 正史三国志・呉書 陳寿著・小南一郎訳など
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