周瑜(しゅうゆ)の友人として知られる孫呉の二代目都督・魯粛(ろしゅく)。
蜀のスーパー軍師で天下三分の計を唱えた諸葛孔明(しょかつこうめい)よりも早く孫権に天下三分の計を提案した人物。孫呉好きならみなさん知っていることだとは思います。さらに魯粛は外交・軍事・内政とそつなくこなす優秀な都督でしたが、初代都督であったイケメンの周瑜と比較するとちょっと地味で、孫呉を下から支える縁の下の力持ち的な人物でした。
そんな魯粛ですが正史三国志によると若かりし頃は貧困層の人々に私財を与え有能な人々と親しくし、孫権に仕える前には多くのエピソードを残しておりました。今回は三国志・魯粛の知られざる逸話を三つご紹介したいと思います。
この記事の目次
三国志・魯粛(ろしゅく)の知られざる逸話とは!?1:武と人望を備えた人物
三国志・魯粛(ろしゅく)の知られざる逸話その1は、武と人望を備えた人物です。孫呉好きのみなさんでも、魯粛が武と人望を備えていたと知らない方が多いのではないのでしょうか。ここでひとつ質問です。みなさんは魯粛にはどのようなイメージを持っているのでしょうか。
レンの魯粛のイメージは外交官・戦略家をメインに考えている人物でした。しかし若かりし頃の魯粛は決してそのような人物ではありません。一体魯粛の若かりし頃はどのような人物であったのでしょうか。魯粛は若い頃剣術・騎馬・弓などを習って己の武を磨いておりました。さらに彼は郷里の若者たちへ衣食を与え、一緒に狩猟を行いながら若者達を指揮して訓練をしておりました。
魯粛が訓練を若者達に施していた頃、天下が大きく乱れ各地で英雄豪傑達が争いを初めて行きます。魯粛は天下が乱れ始めると若者達を集めて「後漢王朝は各地を統治する能力を欠いており、私達が住んでいる近辺にまで戦乱が広がってきている。天下が乱れている中で江南は非常に土地も栄えて農業に適しており、兵士は強く民衆も富んでいるそうだ。
そこでこの江南の土地に避難し時勢が変わるのを見守っていこうではないか。」と述べます。魯粛の部下達は彼の言葉に賛同。さらに魯粛の部下以外にも農民達が加わることになり、その人数はなんと300人以上にもなったそうです。魯粛の人望を伺うことが出来るのではないのでしょうか。
こうして魯粛は300人以上の人数を率いて郷里を出て行くのですが、魯粛の郷里の役人達が騎馬に乗って止めに追ってきます。魯粛は役人達がやってきて行く手を阻もうとするので役人達へ「現在天下は乱れており、今私達を追ってきても誰も注意も咎める者も居ないのに何で俺たちに構うんだ!!」と言ってから持参してきた盾を地面に突き刺して弓で射ることに。魯粛が射ち放った矢は盾を貫通。この場面を見た役人達は魯粛の言動を最もだと考えると共に、魯粛の一行を止めることができないと判断して引き返していくのでした。
盾を貫通させるほどの弓を射ち放つことのできる魯粛の武芸の腕前は、並みの武将以上の武力を持っていたことを証明するのではないのでしょうか。武と人望を備えていた魯粛のエピソードをご紹介しました。
正史三国志に記載されている魯粛の逸話2:とんでもない人物から誘われていた
では続いて正史三国志に記載されている魯粛のすごいエピソード2をご紹介しましょう。魯粛は江南に避難した後江南を制圧していた小覇王・孫策の元に身を寄せますが、後漢王朝の王族から誘われていたのです。
その人物の名は劉曄(りゅうよう)でした。劉曄は魯粛へ「現在天下は大いに乱れており、君の才能はこういった時に必要となるのだから、江南で無駄な時間を過ごしているのはもったいない。巣湖(そうこ)で1万あまりの人数を集めて鄭宝(ていほう)が挙兵している。この巣湖は肥沃な土地であり盧江(ろこう)からも人数が集まってきており、今後ますます人数が増えそうな勢いだ。
私達は彼に参加するつもりだが君もすぐに参加するべきだ。君が到着するのを待っているよ。」と手紙を送ってきます。魯粛は劉曄の手紙をもらってすぐに北上しようとしていたのですが、親友・周瑜に引き止められた事によって劉曄の元へ向かうのを辞めることになるのです。もしこの時王族・劉曄の元へ行っていたら孫呉に仕えることなく、劉曄と一緒に曹操の元へ仕えていたかもしれませんね。
正史三国志に記載されている魯粛の逸話3:ユーモア溢れる返答で孫権を喜ばせる
正史三国志に記載されている魯粛のすごいエピソード最後の一つは、孫権(そんけん)にとんでもないことを言ってしまったことです。一体魯粛は主君・孫権に向かって何を言ったのでしょうか。赤壁の戦いが終結した後、周瑜は江陵城(こうりょうじょう)を攻略するために荊州(けいしゅう)へ向かっていきます。
魯粛は周瑜と分かれて孫権の元へ戦勝報告をするために帰還。孫権は魯粛が帰還してきたことを聞くと急いで武将達を集めて魯粛を出迎えます。この時孫権は魯粛へ「子敬(しけい=魯粛の字)殿。私が馬を支えてあなたを鞍から下ろしたならば十分な勲功に報いたことになるかい」と質問します。
すると魯粛は孫権へ「全然足りないんだけど・・・・」とぶっきらぼうに答えるのでした。魯粛のこの応答を聞いた武将達はびっくりして言葉を失ってしまい、孫権も魯粛の答えに驚いてしまいます。君主を目の前にしてこのような発言をすれば誰だって驚きます。現在で例えるならば、会社の社長に対して直に「俺の給料と待遇足りないんだけど」と言っているようなものです。しかしこの話にはちゃんと落ちがありました。
魯粛はこの言葉を述べてた後「孫権様の名声が中間全土に響き渡り、中華を孫権様が統一して皇帝の位に就任した後、私を特別な馬車で迎えに来てくれた時、初めて私の功績に報いたことになるでしょう。」と語ります。魯粛のこのオチを聞いた孫権は大いに笑った後「わかった。必ず君の言う通りにするよ」と述べたそうです。孫呉の将軍には豪傑・智謀の士がたくさん居ますが、魯粛のようにユーモア溢れる返答をした人物は他にいないのではないのでしょうか。
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三国志ライター黒田レンの独り言
いかがでしたでしょうか。正史三国志に記載されている魯粛の逸話を厳選してお届けしました。外交官としてのイメージが強く、初代都督周瑜と比較するとちょっと地味な魯粛。しかし意外とユーモアにあふれ、剣術などの武術もしっかりと学び、人望も有り、地味だけどほとんど完璧と言えるスペックを持った都督ではないのでしょうか。
さらに魯粛は戦を任せてもそつなくこなす人物でした。では最後に魯粛の戦に関する逸話をご紹介しましょう。魯粛は周瑜亡き後孫権に従って魏の皖城(かんじょう)攻略戦に参加し、大きな損害を出すことなくこの城を1ヶ月~2ヶ月ほどで攻略することに成功。
魯粛が皖城を攻略した年、曹操は関中十部の反乱の首領であった馬超・韓遂(かんすい)の鎮圧戦を展開し、涼州にまとまった軍勢を駐屯させておりました。そのため孫呉方面には大軍を駐留させておらず、皖城は魏の守備兵は多く駐屯しておりませんでした。ですがいつこの方面に曹操軍の援軍がやってくるかも知れない状況下で、短期間で皖城を攻略できたのは魯粛の判断力と戦の巧さを表していると言えるしょう。このように戦も状況をしっかりと判断して攻める時には、ビシッと決める魯粛だからこそ、周瑜も二代目都督に指名したのではないのでしょうか。
参考 ちくま文芸文庫 正史三国志呉書2 今鷹真・井波律子著など
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