三國無双などのアクションゲームではなく、三国志のシュミレーションゲームをするとときに、「孫堅(そんけん)」でプレイすることをためらうプレイヤーが多いのではないでしょうか。理由は孫堅が短命だからです。天下統一するための攻略法としては君主が長く生き続けることが重要です。
今回は陸遜(りくそん)が孫権(そんけん)ではなく、孫堅の時代にタイムスリップして仕えていたらという想定でお話していきます。
孫堅は孫策と孫権の父親
三国志初心者にしてみると、孫堅と孫権はとても紛らわしいのではないでしょうか。声に出して読んでみると同じだからですね。同一人物だと勘違いしている方もいるかもしれません。ちなみに孫堅は孫権の父親です。孫堅の長子が孫策であり、次子が孫権になります。孫家は短命な人生を送る者が多く、その中では孫権だけが例外です。孫権は享年71歳と三国志正史には記されています。
それでも早世する血筋として孫家はランキング上位になりますね。孫策も26歳で亡くなっています。
孫堅は名門の出身なのか?
孫堅が亡くなったのは192年とされています。37歳です。孫権が誕生したのが182年のことですから、孫権は父親の雄姿をほとんど知らずに育ったようなものです。孫堅は呉郡富春県の出身で、孫子の兵法書で有名な孫武の末裔ではないかといわれていますが、真偽のほどは不明です。つまりライバルとなる曹操や劉備と違い、名門の出自ではない可能性があるのです。
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孫堅の昇進ぶり
孫堅は17歳の頃に知略と武勇で海賊を退治して有名になり、郡尉に抜擢されます。さらに郡司馬として、会稽郡で一万の民衆と共に反乱を起こした許昌を退治して昇進し、県丞(県の副知事)を歴任することになります。
黄巾の乱や辺章・韓遂の乱に参戦し強烈なインパクトを残した孫堅は、荊州で発生した区星の反乱鎮圧のために長沙郡の太守に起用されます。あっという間に区星の反乱を鎮めた孫堅は、その後、北上して反董卓連合に参加することになるのです。
孫堅は袁術勢力下でさらに力をつけるも戦死
孫堅は四世三公の名門の出である袁術と太いパイプを持つことで、さらなる高みを目指します。反董卓連合が瓦解した後は、袁術が荊州統一を目論み、それを新しい刺史である劉表が阻止する動きを見せます。劉表を倒すことで孫堅はさらに袁術から強い信頼を獲得できるはずでした。実際に劉表の先陣を任された黄祖を打ち破っています。しかし襄陽を包囲した際に油断して矢を受けて絶命してしまうのです。
孫堅の配下には黄蓋・程普・韓当・朱治などがいましたが、陸遜が助言するのであれば、このタイミングでしょう。じっくりと攻めれば劉表を降伏させることが可能です。どこまでも用意周到に攻城することを進言するはずです。
三国志ライターろひもとの独り言
問題は陸遜のアドバイスを素直に孫堅が聞き入れるかどうかでしょう。大将自らが陣頭に立って士気を高めるのが孫家の戦い方であり、これが強力なアドバンテージになっていたのは事実です。後年、孫策もこれを真似て急激に勢力を拡大しています。ハイリスク・ハイリターンの戦い方ですね。孫権はこれをしなかったから長く生きることができたともいえます。リスク管理ができたのが孫権なのです。これは陸遜も同様です。
しかし、孫家の血筋を受け継ぐ者たちはみな頑固です。ポリシーを曲げない性質なのです。家柄ではなく武勇で勢力を拡大してきた孫堅としては、戦死することを恐れるような陸遜の助言を一蹴するかもしれません。
つまり孫堅と陸遜では水と油のような関係で、上手くいかなかったのではないかと思われます。そう考えると、陸遜は孫堅の説得を諦めて、もしものことを想定して、孫堅亡き後、孫策がすぐに孫家をまとめられるように手を回したかもしれません。
そうすることで、孫策が袁術の配下として長く苦渋をなめるような境遇にはならなかったのではないでしょうか。
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