西暦228年11月、蜀の第二次北伐の直前に、蜀の丞相・諸葛亮が皇帝・劉禅に奉ったという上奏文「後出師の表」。
下記の理由から、偽作であるという説があります。
【1】上奏された時点で存命だったはずの趙雲が死んだことになっている
【2】前出師の表は正史三国志に収録されているが、後出師の表は収録されていない
(後出師の表は諸葛亮伝の注釈に引かれている『漢晋春秋』が『黙記』から引用したもの)本日は、この偽作説を否定する論を展開してみます。
※偽作説には他にもいくつかの論拠がありますが、有力なのは上にあげた2つです。
1.趙雲の没年の矛盾は単なる誤記かも
偽作説の論拠1の趙雲の没年についてですが、趙雲の没年は西暦229年で、後出師の表が上奏されたとされる年の翌年です。1年ちがい。こりゃあ単純にどこかで年号の記載が間違っちゃっただけなんじゃないでしょうか。古代の歴史書で年号の書き間違いというのは珍しいことではありません。三国志本文の中でも年号が矛盾しているような箇所はいくつかあります。
趙雲の没年がおかしいというのは、「後出師の表」を偽作とする決定打にはなりえません。
2.正史三国志に載っていないのは内容が不適切だから
偽作説の論拠2の正史三国志に載っていないという指摘について、真作説を唱える論者の間では、内容が過激すぎて記載できなかっただけであると言われています。「後出師の表」は、魏のことを「賊」と呼びながら対魏強攻策をうったえる内容です。正史三国志は魏王朝を正統とする立場で書かれているものなので、「後出師の表」の内容は不適切としてカットされたのだろうという考え方です。
「後出師の表」は偽作じゃなくてちゃんとあったんだけど載ってないだけだというんですね。正史三国志の本文中で魏が「賊」と呼ばれている箇所はあるので、「賊」自体がNGワードだというわけではありませんが、「後出師の表」はあまりにも読む者の心を揺さぶりすぎる名文で、読む人が「魏め、悪いやつら!」と思っちゃうので、やっぱりまずいです。
「後出師の表」は蜀の記録に残っておらず呉の張儼の『黙記』からの孫引きが伝わっていますが、偽作説では、蜀に残ってなくて呉だけにあるなんておかしいとして、偽作の論拠としています。これについて、真作説では、呉には諸葛亮の兄や甥がいるので親族の中で伝わったものが残っているのだろうとして、呉だけに残ってても不思議じゃない、偽造文書じゃないよ!と言っております。
真作説の決定打!甥の諸葛恪が読んでいる
「後出師の表」真作説で最も有力なのは、甥の諸葛恪が「後出師の表」を読んでいるらしいことです。西暦253年に諸葛恪が魏に対する遠征を始めようとした時、国内の理解を求めるために、今こそ魏と戦うときだぞ! という趣旨の論文を作っています。
その論文の論旨が、どうも「後出師の表」とクリソツなんですな。のんびりしていると敵が強大になるばかりだから積極的に行動をおこすべきだ、という趣旨。時間が経てば経つほど我が国の将兵は減っていくのだから今やらなければ! という、自国の先細り観も「後出師の表」と共通しています。
そして、この論文の中で、諸葛恪はこのように言っています。「我が叔父上が上奏して述べた、敵とあくまで対抗すべきだとする計略を読むごとに、心を動かされ深い嘆息をつかぬこととてなかった」この中の「叔父上が上奏して述べた」ものこそ、「後出師の表」であろう、というのが、「後出師の表」真作説の決定打です。
三国志ライター よかミカンの独り言
私は先日「【後出師の表】は味方の士気を下げるダメダメ偽造文書だ」という記事を書いたのですが、その舌の根も乾かぬうちに真作説のご紹介などを書いております。で結局あんたはどう思ってるんだって話ですが、個人的には、偽作説をとりたいです。
これは単純に好みの問題でして、真相がどちらであるかは私個人にとってはどちらでもいいです。百人いれば百通りの心象風景がありますよ、きっと。中国語のウェブサイトを見ていたら、「後出師の表」は諸葛恪が捏造したんだという説がありました。これまた面白いですね。それなら諸葛恪の論と似通っていても不思議じゃないです。「後出師の表」の文章は諸葛亮の日頃の朴訥な文章とは雰囲気が違う華やかな書きっぷりをされていますが、才気煥発な諸葛恪が書いたとしたら、いかにもらしい感じがします!
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