歴史シュミレーションとしてもお馴染みの「三国志」は、平たく言えば
有能な武将をいかに集めるかがゲームクリアの鍵になっています。
特に魏・呉・蜀の三国には、豪傑、知将、凡将、奸将、様々な個性を持った
武将達が登場し、何度プレイしても飽きない魅力に満ちています。
この記事の目次
劉備と劉邦、共に有能な人材を配下に控えていた
三国志の蜀の建国者、劉備の祖先でもある、漢帝国の建国者劉邦にも、
三傑と呼ばれる有能な人材が配下に控えていました。
この三傑がいたからこそ、劉邦は圧倒的に強い項羽を打ち負かし、
天下を取れたというのが、歴史家の共通した認識です。
劉邦の優秀な配下、三傑の紹介! 䔥何、韓信、張良
その三傑とは、䔥何(しょうか)、韓信(かんしん)、張良(ちょうりょう)の3名の事で、䔥何は内政の天才、
韓信は軍事の天才、張良は軍師として謀略の天才でした。
䔥何と劉邦は幼なじみ
䔥何は、劉邦とは幼馴染で、地元、沛の小役人をしていました、
劉邦は、若い頃は怠け者の大酒飲みでホラ吹きでしたが、
䔥何は、劉邦のどんな人材も飲みこむ器の大きさを見抜き、
これを陰に陽に支援して劉邦の女房役として仕えました。
項羽との楚漢の戦いでは、何度も項羽に負けて逃げ回る
劉邦に対して、䔥何は関中を抑えて補給物資と兵力を送り続け、
とうとう、最期には項羽を打ち破る事に成功しました。
色々の献策を提案する韓信
韓信は、元は貧農の出で、最初は項羽に仕えて、色々の献策をします。
しかし、自分の才能のみを頼む項羽は韓信の献策を使わず、
仕事も郎中(ろうちゅう)という剣の腕を買われただけの用心棒扱いでした。
野心の強い韓信は、項羽に愛想を尽かし、今度は劉邦の陣営に参加します。
䔥何は、韓信と会話するや、これは非常な天才と見抜いて
劉邦に、これを大将軍にするように推挙します。
ところが、劉邦は韓信の風采を見て、侮り適当な将軍にしたままで、
放置しておきました。
韓信満足できず劉邦の陣営を離れると決意する
韓信は、ヒラの将軍の地位に満足できず、劉邦の陣営も離れようとします。
それを知った䔥何は、慌てて自分も陣を離れて韓信を追い説得しました。
この時に、劉邦に䔥何が脱走したと誤報を流すものがいて劉邦は悲しみ、
かつ怒っていましたが、程なく䔥何が帰ってきたので安堵します。
䔥何が韓信を連れ戻す為に陣を出た事を知ると、劉邦は
「将軍なら、これまで幾らでも逃げたがお前は追わなかったではないか?
どうして韓信にだけは、そこまでこだわるのだ」と聴きます。
すると䔥何は反論して言いました。
「ほかの将軍なら何百人逃げようが代わりは幾らでもいます
しかし、韓信はたった一人の大将軍、国士無双で替わりはいません」
ここで初めて劉邦は韓信の価値に気が付き、これに漢軍の総大将
の地位を与えました。
韓信は、この扱いに大いに満足し、劉邦とは別個に各地を転戦、
30万人という大軍を創り上げて戻り、項羽を撃破するのに
多大な貢献をして三傑の一人に名を連ねます。
秦に滅ぼされた韓の貴族出身、復讐に燃えている張良
張良は、元は秦に滅ぼされた韓の貴族で、始皇帝への復讐に燃え
暗殺計画を立てますが失敗し、指名手配を受けて各地を転々とします。
その最中に兵法を学び、軍師としての才能を開花させました。
劉邦とは、劉邦がまだ、沛の支配者として小勢力だった頃に出会いますが、
器が大きく、献策をどんどん入れて採用する劉邦の魅力に惹かれ
劉邦軍の軍師として、活躍するようになります。
張良は同僚の陳平と共に、劉邦に計略を次々と献策していきます。
紀元前203年に、漢と楚が一度和睦して天下を二分する事で
講和が成立して、両軍が一度引きあげた事がありました。
この時に張良は和睦を破る事に躊躇する劉邦に対して
「今こそ楚軍を滅ぼすチャンス直ぐに項羽を追撃して下さい」と強く進言し、
油断して浮足立っていた楚軍を完全に撃破する事に成功します。
項羽は僅かな手勢で垓下城に入り50万人の漢軍の包囲を一度は突破しますが、
雲霞のような敵軍を前に命運が尽きた事を悟り悲劇の最期を遂げるのです。
このように劉邦は、三人の英傑を上手く使う事で、項羽を滅ぼし
天下を手中に収める事に成功したのです。
軍師諸葛孔明と軍師張良の違い
三国志の軍師諸葛孔明は、この張良に匹敵すると言われていますが、
張良が劉邦のワガママを制して上手く操縦したのに対して、
孔明は、例えば関羽の仇討ちと称して呉の孫権に宣戦布告した
劉備を止められない等、性格的に甘い所が見えます。
これが、劉邦が天下を取れ、劉備が天下を取れなかった
一つの理由になっているかも知れませんね。
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