曹操の軍師達の中で、同族の荀彧の影に隠れ気味な荀攸。しかし内政で功のあった荀彧に対し、荀攸はどちらかというと軍略の才をもって曹操に仕えました。
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荀彧と荀攸の関係が分かりづらい
よく「荀彧の年長の甥」と説明されており(荀攸の方が6歳上)、なんじゃそりゃ?と混乱する方もいると思います。説明しますと、荀攸の曽祖父と荀彧の祖父が兄弟。荀攸の曽祖父が荀彧の祖父よりもかなり年長の兄でした。このため荀攸は年長ながら、荀彧の甥という関係にあたるのです。
荀氏は戦国時代末の思想家・荀子の子孫
荀氏は戦国時代末の思想家・荀子の子孫だと言われています。後漢で名族と言われるようになったのは荀彧の祖父・荀淑(後漢書に伝があります)からで、荀彧の代には頴川を代表する一族でした。
荀攸は董卓暗殺に失敗し死刑判決を受ける
後漢末期、既に官吏として出仕していた荀攸は、何進が大将軍となると中央に招聘され黄門侍郎(皇帝に近侍する職)となります。
その後(荀攸30代前半頃)董卓が実権を握ると、その専横に憤り仲間と共に暗殺を計画します。
実行前に捕まってしまい投獄・死刑判決まで受けますが、死刑執行前に董卓が死亡、無事に牢獄から助け出されました(董卓を説得して助かった、という説も伝わっています)。
董卓失脚後の荀攸は何をしていたの?
その後は一時頴川へ帰郷しますが再度召し出され、任城の相(現在の済寧市の宰相)に任命されますが、任城へは赴任せず蜀郡(現在の成都周辺)太守を希望し、現地へ赴任します。
しかし益州牧(現在の四川盆地・漢中盆地一帯を治める長官)の劉焉や、五斗米道の混乱により荊州で足止めされてしまい、しばらく留まる事となりました。
荀攸39歳の頃に曹操にスカウトされる
39歳の頃に荀彧の推挙により曹操に目を付けられ、
曹操:「いつまで荊州で蜀漢を眺めているつもり?」とスカウトを受けこれに応じました。
荀攸と語り合った曹操は「並々ならぬ人物」と軍師に任命します。
荀攸が曹操から重用されるきっかけ
張繍征伐(曹昂が死んだ後の戦い)時には献策が用いられませんでしたが、この時荀攸が予見した通りの展開となって敗北した曹操はこれを悔み、以後重用されるようになりました。曹操の遠征には必ず従軍し、数々の功績を挙げた荀攸。
曹家から愛されていた荀攸
思慮深く才能をひけらかさない人柄も曹操に非常に気に入られ、息子の曹丕に「荀攸を手本とするよう」と諭しています。
曹操の魏国建国にも功有り、病没するまで関係は良好だったそうです。
三国志演義では魏王になるのを反対し、怒りを買ってしまった…となっていますが、史実では荀彧とは違う生き方を選択した人だったのですね。