いつの世も息子の前に立ち塞がる存在といえば父親。エディプス・コンプレックスなんていう言葉もあるように、同じ男である父と息子の間にはなんとなく微妙な空気が流れるものです。
孫権は幼くしてその父を亡くしていますから、そんなものとは無縁だったかに思われますが、実はそうでもなかった様子。
なにせ第二の父とも言える存在がことごとく彼の前に立ちはだかったのですから…。
孫策から受け継いだ臣・張昭がウザすぎる
孫策に見出されて参謀として活躍した張昭。彼は孫策を最高の主君であると崇めていたのですが、孫策は刺客に襲われて深手を負い、明日をも知れない命となってしまいます。
そしていよいよ孫策が自らの死を悟ったとき、張昭に次のような遺言を託しました。
「弟の孫権はまだ19歳だ。どうかあいつのことを良く補佐してやってくれ。…もしあいつに力が無ければ、あなたが自ら政治を執り行ってくれ。」
張昭は孫策の言葉を受けて、孫権をしっかり補佐しようと決意。さっそく孫権が後継者だということを臣下に知らせたり朝廷に知らせたりと奔走しました。
ところが、当の孫権はシクシクメソメソ…。誰もが孫権の心情を察して無理をさせないようにと気を遣っていたのですが、なんと張昭は泣きじゃくる孫権に喝!
「いつまでメソメソしてるんですか!女子供じゃないんだからしっかりなされい!」
そして無理矢理身支度を整えさせ、孫権を馬に乗せてパレードを強行。
このおかげで「あぁ、次は孫権がトップなのね。」と人々が認知できたわけですが、目を腫らして馬に乗っていた孫権はこう思っていたに違いません。「あの張昭って奴、ウザすぎる…。」
張昭の言葉は馬耳東風だもんね♪…ところが
孫策から「張昭の言うことをよく聞くんだぞ」と言われていた孫権ですが、「俺のことナメてる口うるさいオッサン」と認識していたらしく、ことごとくナメ腐った態度をとります。
虎狩りのスリルが忘れられなくて危険な目に遭って張昭に叱られても何度も虎狩りに出かけてヘラヘラ。
張昭が嫌った魯粛をあえて重用し、赤壁の戦いで勝利してドヤ顔。
孫権は兄の遺言もどこ吹く風、「もうあのオッサン、要らなくね?」と奢りはじめます。しかし、相変わらずガミガミうるさい張昭。いい加減嫌になった孫権は張昭との面会を拒否します。
「これで小うるさいオヤジと会わずに済むぞ」と羽を伸ばしまくっていた孫権の元に蜀からの使者が訪れました。孫権が「蜀はどうかね?(呉の方がすごいやろ?)」と使者に聞くと、使者は立て板に水のごとく蜀の素晴らしさをとうとうと語ります。
孫権はこれに対してうまく言い返すことができず、悔しい思いをすることに。「張昭だったら言い返してくれたはずなのに…」そう思った孫権は張昭に謝罪。
するとあの頑固オヤジ・張昭も「いえいえ、私も言葉が過ぎるところがありました。」と非礼を詫びて再び会うことができることに感謝を述べました。
お互いに態度を改めて2人で新たな一歩を踏み出すかに思われたその時、張昭が一言。「これからも今までと変わらず、直言によってサポートさせていただきます!」
あのくそオヤジ、ぶっ殺してやる!…ところが
ある日、公孫淵が「呉に入れてくれ」と孫権に申し入れをしてきました。孫権はさっそく使者を送って認めてやろうとしたのですが、またも張昭がこれに反対。
「こいつオレの言うこと全部にとりあえず反対したいだけなんじゃないの?」と苛立ちを覚えていた孫権は、歯に衣着せぬ張昭の言葉にブチギレ。「このくそオヤジ、今日という今日はぶっ殺してやる!」と剣に手を掛けます。
しかし、それでも張昭の言葉は止まりません。涙を流して孫策の最期の言葉を孫権に伝えました。このことで頭が冷えた孫権涙を流し、張昭も「わかってくれたのですね…」と更に涙を流します。
ところが結局、公孫淵に「呉に入れてあげる」という使者を送った孫権。張昭は「あの涙は何だったんだ!」とブチギレて家に引きこもります。
これには孫権も腹を立て、「そんなに引きこもりたいなら一生出られなくしてやるわ!」と張昭の屋敷の前に土を盛りまくったのですが、張昭も「なにくそ!」と内側から土を盛る始末。
結局公孫淵に裏切られた孫権は張昭に土下座をする勢いで何度も謝ったのですが、頑固な張昭は引きこもり続けます。
孫権が屋敷に直接赴いて大声で呼びかけても、「病気が重いので」と面会拒否。「こんなに謝ってるのに!あのオヤジぶっ殺してやる!」と再びブチギレた孫権は、あろうことか張昭の家に火を付けます。しかし、張昭は一向に出て来ようとせず、孫権は慌てて火を消させたのでした。
三国志ライターchopsticksの独り言
激しすぎる親子喧嘩を演じた2人。ある意味最高の君臣コンビだったのではないでしょうか。
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