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周倉にはモデルとなった人物がいた!?漢の高祖・劉邦に関係が?

2019年3月4日


 

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関羽と周倉

 

周倉(しゅうそう)といえば関羽(かんう)の側近として常に付き従っていた忠義の人というイメージを思い浮かべる人が多いでしょう。彼の活躍ぶりはまさに臣下の鑑と言えます。

 

三国志平話

 

ところが、周倉は『三国志平話(さんごくしへいわ)』や『三国志演義(さんごくしえんぎ)』などの『三国志』をモデルとした作品の上でだけ登場する架空の人物。そのため、『三国志演義』を読んで周倉を知った人が正史『三国志』を読んで「周倉がいない!?」とガッカリすることも多いのではないでしょうか。

 

李儒と三国志(はてな)

 

しかし、気を落とすのはまだ早いですよ。存在はしていなくとも周倉のモデルとなった人物はいたはずです!今回は、周倉のモデルとなった人物は誰なのか、周倉のモデルとなった人物はどのような人物であったのかについて皆さんにご紹介したいと思います。

 

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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周昌という人物が周倉のモデル?

周倉

 

周倉のモデルについては二階堂善弘「関帝信仰と周倉」(2014年4月)において『道法会元』という書物を取り上げ、漢の高祖・劉邦(りゅうほう)に仕えた周昌(しゅうしょう)という人物ではないかと言及されています。

 

同年小録(書物・書類)

 

この『道法会元』とは宋元代に編まれた著者不明の道教にまつわる書物で、方術・道術のテキストとして知られている書物です。

 

関羽の青銅像

 

実は関羽は、関帝廟の存在からも推し量ることができるように道教の神様として祀られているため、この『道法会元』にも登場。『道法会元』巻259においては関羽の宝刀を持つ者として「周昌」の名が挙げられています。このことから周昌が周倉のモデルであると考えられるのではないかと二階堂先生は考えたようですが、果たしてその説は正しいのでしょうか…?

 

 

周昌と周倉の共通点はあるの?

周倉

 

先ほどご紹介した通り、周昌は前漢時代の人物ですから、周倉はもちろん『三国志』の時代とは縁遠い存在のように思われます。共通点といえば「周」という名字ですが、その当時「周」という名字の人はごまんと存在していたはず。ただ名字が同じだからといってモデルとして仕立て上げるのは無理があるでしょう。普通、モデルとするならば、性格や行動が特出している人物のはずです。というわけで、周倉と周昌の美点として共通項が無いのかを洗い出していきましょう。

史記_書類_劉邦と始皇帝

 

周昌は『史記(しき)』において司馬遷(しばせん)に木や石のように実直であると評されています。彼は直言の士として高祖・劉邦相手でも歯に衣を着せることなく諫言を言い続けました。このような点から、周昌もまた忠義の臣であると言えますが、同じ忠義の臣と言っても周倉とはまた別のタイプの人物であったことが窺えます。

 

魯粛

 

周倉にも魯粛(ろしゅく)に対して「天下の地は徳ある者のものであり、呉のものではない!」と啖呵を切ったエピソードがありますが、これは関羽と打った芝居の一部であり、また直言とは違うものです。これらのことに鑑みるに、周昌が周倉のモデルとなった人物であると考えるのは難しいことのように思われます。

 

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ただの写し間違えでは…?

西遊記巻物 書物_書類

 

『道法会元』の記述を信頼し、周倉のモデルを周昌と結論づけるのはいささか難しいように思われます。なぜなら、そもそもその『道法会元』の記述自体が誤りである可能性も否めないからです。中国の書物は宋代までは手書きで書き写されて伝えられ、それ以降も手彫りで印刷して伝えられてきました。

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そのため、どうしても伝写の誤りが生じていたのです。この『道法会元』における「周昌」の「昌」も別の人物の名前であった可能性は大いにあります。このことについては二階堂先生自身も疑うところのようですが、その真実を明らかにするには容易ならざる道のりが待っていることでしょう。

 

 

三国志ライターchopsticksの独り言

三国志ライター chopsticks

 

以上のことから周倉のモデルとなった人物を周昌とするのは少し難しいと考えるべきでしょう。周倉に関係しそうな記述から周倉のモデルを求めるという二階堂先生の手続きも必要なことではあると思いますが、モデルというからにはその人物の人となりや行動の元となったであろうエピソードを持つ人物をつぶさに当たっていく方が適切な方法なのではないかと思われます。

 

周倉のモデルについては、研究の余地が大いにあります。皆さんもぜひ周倉のモデルについて研究してみてはいかがでしょうか。

 

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三国志平話

 

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清朝考証学を勉強中。 銭大昕の史学考証が専門。 片田舎で隠者さながらの晴耕雨読の日々を満喫中。 好きな歴史人物: 諸葛亮、陶淵明、銭大昕 何か一言: 皆さんのお役に立てるような情報を発信できればと思っています。 どうぞよろしくお願いいたします。

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