樊城の戦いと言えば色々な意味で関羽が有名です。
その関羽のライバルとして描かれる人物はたくさんいますが、その人物の一人に近年では夏侯惇が挙げられます。そこまで関りがないのにどうして?と思っていましたが、どうやらゲームなど影響や、演義でも関羽と戦うシーンがあるからのようですね。
そこで今回は夏侯惇についてもっと皆さんに知って貰うために、樊城の戦いだけでなく色々な面から夏侯惇という将軍を解説していきたいと思います。
猛将イメージの強い夏侯惇?
近年では猛将イメージが高くなっている夏侯惇。
彼の荒々しい性格のイメージが付いたのは、彼が若い頃自分の先生を侮辱した人物を怒って斬り捨ててしまったり、呂布との戦いの中で片目を失って食べてしまったりと言う豪胆な逸話や伝説からどうしても気性の荒い、激しい性格の人物というイメージが付きやすいのでしょうね。
また関羽と真っ向勝負するシーンが演義では描かれていることもあり、このことから「気性の激しい猛将で、関羽に対してライバル意識を持っている」という武将として描かれていることがあります。とは言え、これらはあくまで夏候惇の「イメージ」です。実際の夏侯惇という人物はこのイメージからは想像もつかないような、武官よりも文官に近い人物なのですよ。
部下を使うのが上手く、文官よりだった夏侯惇
そんな夏侯惇は正史では文官よりに書かれています。
というよりも戦闘はどちらかと言うと苦手な部類の人物だったようで、後方支援を行ったり、農産業の奨励やインフラ整備などを積極的に行う人物で、そちらの方での功績が多く記されています。この記述だけでも、夏侯惇という人物のイメージと違う、と思う人も多いのではないでしょうか。
また人を宥めたりする、人間の潤滑剤として良く務めたようです。多くの人物たちが集う国、それこそ会社であると考えれば人の軋轢は多くあります。その軋轢を少なくしてくれる人物と言うのはとても貴重であり、重要な人物です。部下や民たちからも深く慕われており、人柄の良さがうかがえますね。
樊城の戦いでは夏侯惇は?
さてではいよいよ夏侯惇が樊城の戦いで何をしていたか、何処にいたかを述べていきましょう。正史ですが夏侯惇の記述は樊城の戦いでは殆ど出てきません。その前から合肥の土地に張遼と共に守将として置かれていたようですね。
孫呉のための備え、ということです。合肥の土地の重要さを見れば夏侯惇が張遼と同じくとても信頼されていた将だと分かります。
また魏の合肥と言えば張遼、楽進、李典と言った武将たちが出てきますが、この三名は仲が悪かったとしても有名です。そんな中でもプライベートと仕事を分けて協力し合って孫呉と戦った、と書かれていますが、それにはやはり夏侯惇という潤滑剤も関わってきていたのではないでしょうか?
曹操は樊城の戦いでは最初に于禁の援軍、それが敗北したために徐晃の援軍を送っていますが、その後詰めとして次には夏侯惇、張遼に部隊を率いさせて送るつもりであったようです。
于禁、徐晃と言う名将たちが敗北した場合の切り札であり、最終手段として夏侯惇を動かすつもりだったのでしょう。
ここでもし夏侯惇が援軍として配属されれば関羽と夏侯惇、張遼の戦いが見られたかもしれませんが、結果はそうはなりませんでした。文官として優秀なだけでなく、最終的な切り札として配属できる強さもまた、夏侯惇の使い勝手の良さだったのではないでしょうか。樊城の戦いでは名は残さなかったけれど、それ以外では十分に重用されて活躍しているのです。
清廉潔白な人物だった夏侯惇
夏侯惇は民や部下に慕われていた、と言いましたが、その理由として彼が余分な資産は他人にすぐ配ることも理由の一つでした。最終的に大きな功績を上げ、大将軍にまで任命された夏侯惇の墓から出てきたのは一振りの剣だけだったとも言われています。この人柄こそが魏の中で、彼が多くの人物に信頼されていた証明でしょう。
因みに蜀びいきな演技では、魏の武将や呉の武将がやられ役として使われることが多くあります。そんな演義被害者の会の中でも、実は夏侯惇はやられ役の後にきちんとそれを挽回するようなシーンも描かれているのです。なので結構、羅貫中は夏侯惇を気に入っていたのかもしれませんね。
三国志ライター センの独り言
実は筆者も演義から三国志を知ったので、夏侯惇のイメージは猛将でした。しかし正史を読み、そして改めて演義を見直すと、夏侯惇という武将がどう描かれているかの違いがまた楽しく、深く人物評を楽しむきっかけにもなったと思います。正史と演義での違いが大きく、意外なイメージがある夏侯惇、その一面を少しでも皆さんに知って貰えたなら、どても嬉しいですね。