黄巾の乱が三国志の始まり、そう思っている人も多いでしょう。
事実、黄巾の乱は三国志の英傑たちのデビューの場であり、力を付けていった戦いでもあります。
今回はそんな黄巾の乱で特にその後に影響を受けることになった英傑たちと、彼らが得たものを紹介していきましょう。
そもそも黄巾の乱が始まったきっかけは?
元々、桓帝という先代帝に子供がいなかったことがある意味で悲劇の始まりです。
跡継ぎは桓帝の皇后たちによって擁立された霊帝、彼が資金を手に入れるために官位売買を始めました。つまりお金さえ出せば地位が手に入る時代になったのです。
その上、宮中では霊帝を擁立した一派と、桓帝健在の頃からの重鎮である宦官たちとの間に権力争いが行われていました。この頃の宮中での権力と言えばお金そのもの、つまり財力です。
財力を得るために官位の売買が激しくなる、高い官位が欲しい地方役人たちなどが庶民に重税を課して資金を絞り取る、という悪意のスパイラルが始まり、そこに天候不良、異民族の侵攻などが重なって時代は正に暗黒期となっていたのです。
そこに現れたのが黄巾族、彼らは張角を宗主とした集まりで各地で奇跡を起こして人々を救い、貧窮していた人々を集めて一大勢力となりました。彼らを討伐するために宦官たちと霊帝一派は一時的に休戦して討伐軍を作ります。
この戦いが黄巾の乱です。ではその黄巾の乱で名を挙げていった三国志でも有名な武将たちを見ていきましょう。
精鋭の兵たちを手に入れた曹操
曹操は黄巾の乱で手柄を挙げたことで騎都尉に任命されています。
その後、皇甫嵩と共に黄巾賊の残党として暴れていた潁川郡の賊を討伐しました。この賊討伐こそが後の曹操の主力とも言える精鋭部隊である青州兵を手に入れた戦いです。
因みに黄巾賊の残党は兵士が30万、非戦闘員が100万人ほど曹操に降伏したと言われており、その数の多さが窺い知れます。この数が残党と言うのですから、黄巾賊がどれだけ大きな集団であったかも想像できますね。
そしてその残党を手に入れた曹操、この時代は人こそ力と言っても良い時代ですから、曹操はこの時点でかなりの力を蓄えたと言っていいでしょう。
ここから天下に出ていく劉備三兄弟
一括りにしてしまっていますが、この黄巾の乱で劉備の名を見ることができます。「劉備は義勇兵を率いて校尉鄒靖の下で黄巾賊を討伐、武功を立てて安熹県の県尉に任命された」となっています。しかしその一方でこの校尉、鄒靖に関してはどのような人物なのか分かっていません。
後漢書によると辺境近くで暮らしていた人物であること、異民族について詳しかった人物であったという記述しか分かりませんでした。しかしこの人物の下で功績を挙げたことで、劉備は大きく出世します。
と言うのも劉備も義弟である関羽や張飛もこの時点では曹操や孫堅に比べればまだまだ無名と言っても良い存在。ここで名を挙げて昇進できたからこそ、三国志を代表する一人、そして将軍として有名になることができたのでしょう。
大将軍のその後の運命…何進
黄巾の乱で名を挙げた訳ではありませんが、ここで紹介しておきたいのが黄巾の乱の討伐軍大将軍であった何進。何進は異母妹が霊帝の皇后になったことから引き立てられた人物で、元々は屠畜業を行っていました。
彼自身はそこまで積極的ではなかったようですが、妹が皇后になっていたことで宮中の政争にも関わっていき、最終的に殺害されます。
三国志演義では妹の七光りで出世した無能のように描かれていますが、実際にはそこまで酷い人物ではなく、むしろ黄巾の乱では首都の防衛をミスなく全うし、前線にも補給輸送を行ってサポートするなどしっかりと功績も挙げている人物です。
また部下たちにも優しく思いやりを持って接していたために彼が殺害された時に多くの兵士たちが敵討に参加したと言われています。何進自体は黄巾の乱のその後に殺害されましたが、彼の死はある意味で三国志と言う時代の始まりを表しているような気がします。
義妹の引き立てによって出世したと言えど、当人に落ち度はそれほどなく、さりとてずば抜けて優秀でもなく…そういった人物では既に生き残れない、そんな世代になってきていたのでしょう。
三国志ライター センの独り言
黄巾の乱と言うと、三国志の始まりの戦いというイメージがあります。
そしてこの戦いがあったからこそ、数々の英傑たちが天下に名乗りを上げました…そう、漢と言う国の終焉と共に。そう思うともの悲しいものがありますが、ここから全てが始まってくると思うと同時にワクワクもしてきます。
黄巾の乱で名を挙げた、つまりまだ無名に近い武将たちが今後どれほど躍進していくのか、それを見守る楽しさが黄巾の乱にはあると思いますね。
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