経済学にいうゲーム理論に、「しっぺがえし戦略」というものがあります。
三国志の世界にあてはめてカンタンにまとめると、
・短期的に見れば、平気で裏切る人が、絶対に裏切らない人を食い物にする法則があるようにみえる
・しかし長期的に見れば、絶対に裏切らない人のほうが、だんだん利得が大きくなっていく
・ただし、絶対に裏切らない人は、単純な平和主義者であってはならず、「裏切られたことに対する正当な反撃」はしないといけない
・つまり、やられたときはキチンとやりかえさないといけない
・「こちらから裏切ることはないけど、裏切られたら場合は必ずやり返す」戦略が、結局は裏切り者を駆逐し自分の評判も傷つけない=最強である
となりましょうか。
この理屈は現代の私たちの実体験にも適っているように思います。
他人をどんどん蹴落として急成長する人は、強いように見えて、長い目で見ると、けっきょくは没落していたりするもの。
いっぽうで、他人に傷つけられても、何をされても、
「ハイ、仕方ないですね」とへりくだっているばかりの人も、当然、評価されることはない。
裏切ってくることはないが、怒らせると怖い人。
そう思わせることが、けっきょくは最強、ということですね。
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この記事の目次
裏切りの象徴呂布と義理固さの象徴劉備、二人の関係を回顧する
この理屈は、三国志の物語の中でもあてはまるでしょうか?
「裏切りキャラと義理固きキャラの駆け引き」ということでは、最高の事例がありますね。
徐州を巡る戦いの顛末で、行き場をなくした呂布は、なんと劉備のところに逃げ込んできます。
読者の気持ちを代弁する役回りの張飛は当然、「呂布などを抱え込むと絶対に裏切られる」と忠言するのですが、劉備は「いや呂布といえども助けを求めてきたのだから裏切れない!」と首を振ります。
なんとも、わかりやすく両極端な性格の、劉備と呂布。この二人が同じ拠点で生活することになってしまったのですが、さてこの出会い、どうなったか。
呂布が天性の裏切り者というのは、この時点でもはや誰でも知っていたこと。そんな呂布すらも拾ってやった劉備は、やられてもやり返さない、単純無害な「いいひと」なのか、それとも相手に裏切られたら容赦なく仕返しをする、ケジメを持った人なのか。
第一ラウンド:二虎競食の計は劉備には通じず
劉備と呂布のキャラクターをテストするかのように、荀彧が策を仕掛けてきます。
それが、二虎競食の計。
曹操から劉備に、「徐州の正式な領有権を認めるかわりに呂布を討ってくれ」という手紙を仕向けることで、両雄を仲たがいさせようとする策です。
ところが劉備は、「これは荀彧あたりの計略だ」と瞬時に見抜き、曹操からの手紙を握りつぶし、あくまで呂布を客分として守り抜いてやります。
なんと義理固い!
これを知った呂布も、このときは、さすがに劉備の人徳に感激したようですが・・・。
第二ラウンド:駆虎呑狼の計は呂布にあっけなく通じちゃった!
そこで荀彧が仕掛けたのが、駆虎呑狼の計。
劉備に袁術を討伐する遠征軍を出すように勅使を出し、いっぽうで、その劉備の留守を狙うよう呂布にそそのかして、呂布の劉備に対する裏切りを誘発する計略です。
この時、呂布は堂々と劉備を裏切ります。二虎競食の計の際には、劉備は呂布を裏切らなかった。その事件からわずかな期間しか経ていないうちの話なのに、です。
かくして、劉備の留守中の徐州で挙兵し、下邳城を奪ってしまった呂布。
この裏切りにより、劉備軍は大打撃を受けることになったのですが、、、。
呂布にトドメを刺したのは劉備のヒトコト。裏切られたら容赦はしない人だった!
その後、多少の紆余曲折を経て、劉備はけっきょく、曹操のところに身を寄せます。劉備の案内で曹操軍は下邳を攻め、ついに宿敵呂布を捕獲することに成功します。
とらえられた呂布は、曹操に対して、
「縄を解いてくれ! 俺を味方にすればきっと役に立つぞ!」
と声を張り上げます。
人材コレクターである曹操は、この言葉に一瞬迷ったようですが、ここで劉備が
「この呂布という男は、これまでさんざん主人を裏切ってきたことを忘れないように」
との、冷たいアドバイス。この口添えで、曹操の決意が固まります。
結論は、斬首。
かつて裏切った劉備の冷静なヒトコトが、呂布にトドメを刺したのでした。
まとめ:劉備は単に義理固いだけでなく、筋を通している!
斬られる直前、呂布は「劉備こそ油断のならないやつだぞ」と悪罵を投げかけたそうです。しかしこれは、公平に見ている人たちからすれば笑止千万でしょう。呂布を決して裏切らなかった劉備を、呂布のほうが裏切ったわけですから。
むしろここで、劉備が「呂布は本当は悪い男ではないんだ、命は助けてやろう」などと言い出したら、今度は劉備のほうが周囲の信頼を失ってしまったのではないでしょうか。
劉備軍の一般兵卒たちも、
「うちの殿が呂布に甘い顔をしたせいでひどい苦労をした」と思っていたはずなのですから。
そこに「うちの殿は呂布に厳しいことを言って、斬首に追い込んだらしい」と伝われば、
「ああ、うちの殿は単に義理固い人というより、筋を通す人なんだ」と、みんなが納得し、ますます劉備についてくるのではないでしょうか。
三国志ライターYASHIROの独り言
考えてみれば、のちに劉備の失策ともいわれる夷陵の戦いも、同じ理屈での判断だったのかもしれません。
関羽が殺された時、確かに、呉の孫権を許して、事を荒立てないで済ます、という選択肢もありました。
しかし、それをやってしまうと、「筋を通す男」という劉備の評判は崩れ、それはそれで重大な内憂を残す、という判断だったのではないでしょうか。
たとえ短期的には負けるとわかっていても、義兄弟を殺された以上は、報復戦を意地でもやるのだ!
それが劉備の人生哲学だったとすると、「意外に冷たい」という印象でとらえられている、呂布処刑の際の劉備の言動も、失策と批判されがちな「夷陵の戦い」の判断の経緯も、また違って見えてくるのではないでしょうか。
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