三国志の呉には周瑜や魯粛、呂蒙など孫権の創業時代を支えた優秀な将軍ですが、孫呉の後期にも彼らに匹敵する名臣がたくさん登場しています。
例えば今回紹介する朱拠も孫呉にとって名臣と呼ぶにふさわしい将軍の一人です。彼はいったいどのような活躍をした人物なのでしょうか。
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体力もあり、議論もできるカッコいい朱拠
朱拠は呉郡出身の武将で、孫権が夷陵の戦いで劉備軍をボコボコにした頃、孫権に召し抱えられます。朱拠は正史三国志呉書によると体力もあり、人との議論において適切な言論を行い、命がけで通り筋を通し、顔もカッコいい人であったと記載されています。
朱拠の議論についてのエピソードが残っているので紹介したいと思います。
人を罰するなかれ!!
朱拠は孫権に仕えた頃、曁艶と言う人物が孫権配下のほとんどが、強欲でどうしようもない人物たちばかりであふれかえっている事に腹を立てていました。朱拠は曁艶が孫権配下達の諸将を憎んでいる事を知り「天下はいまだに三つに分裂し、統一されていない状態です。このような状況の時に才能を持っているが欠点のある人の官位を下げてしまうのは良くありません。
いきなり官位を下げてしまえば、災いがあなたに降りかかってくることになります。そのような状況を防ぐために、彼らの欠点を帳消しにして仕事に熱中できる状況を生み出すのがいいでしょう。」とアドバイスを行います。
しかし曁艶は朱拠のアドバイスを採用しないで、欠点のある人々の官位を下げてしまった為、後に孫権配下の人々から恨まれることになり、悲惨な最期を迎えることになります。このように朱拠は適切なアドバイスを行うことができる人物でした。
命がけで筋を通す朱拠
朱拠は二宮の変で孫和と孫覇が争った際、孫和を擁護。朱拠は孫和を擁護するため何度も孫権の元へ赴いて「孫和様を太子のままにするべきです。」と心を込めて説得します。
孫権は朱拠の説得を拒んで、孫和を太子の位から外してしまい僻地へ流罪。朱拠は孫和が太子の位から外されて、流罪になった事を知ると自分の顔に泥を塗り、自分の体を縛り付け、孫和を擁護していた役人たちを率いて孫権の元へ出頭し「孫和様を許していただけないでしょうか」と何度もお願いします。
孫権は朱拠達が何日も何日も同じような格好でやってくるので怒って「見苦しい真似をするな!!」と激怒。朱拠は孫権に怒られてもめげることなく同じことを繰り返しつつ、孫権へ直接「孫和様をお許しになって再び皇太子にするべきです」と説得します。
孫権は朱拠らの執拗な説得に堪忍袋の緒が切れて、彼らを呼びつけて棒叩き百回の刑罰を与えます。朱拠は棒叩き百回の刑罰を受けた後、遠方の県へ流罪を命じられます。
朱拠は孫権の命令に逆らうことなく、遠方の県へ向かう途中に発病し、亡くなってしまうのでした。孫呉の名臣にふさわしい人物だった朱拠は、自分が不利になろうともしっかりと筋を通した人物でした。しかし朱拠の筋の通った説得も晩年の狂った孫権の耳に入ることはなく、残念な最期を迎えてしまいます。
三国志ライター黒田レンの独り言
孫権は朱拠が議論に優れ、武将としても優秀だった事から「呂蒙に匹敵する武将だ」と彼を誉め、驃騎将軍の位を与えていることからかなり優秀な人物だったことが伺えます。もし朱拠が二宮の変に関与することなく、黙っていれば孫呉後期における名将の地位を確立することが出来たかもしれませんが、一つだけ名将になれない点がありました。
それは朱拠に孫権の心情を忖度することができなかった点です。孫呉の名将・呂蒙はしっかりと孫権の心情を忖度できる人でした。そのため朱拠が呂蒙のように孫権の心情を忖度することができれば、孫呉の名将として名を連ねることができたと思います。
■参考文献 正史三国志呉書など
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