西暦219年7月、益州と漢中を領有した劉備は、漢中王に即位しました。
しかし、当時は曹操が魏王になっていたとはいえ、まだ献帝は存命中です。この状況で漢中王即位は、若干フライング気味でした。
ですが、劉備は何も己の野望の為だけに漢中王に即位したわけではありません。
実は、馬超が劉備の陣営に入った事で劉備は即位しないといけなくなったのです。
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漢中王推薦状の筆頭が馬超である不思議
馬超の入蜀がどうして、劉備が漢中王に即位する事に繋がるのか?
それは、劉備が献帝に向けて出した漢中王の推薦状に出ています。
この推薦状には、劉備を漢中王に即位させて下さいという蜀臣120名の連署なのですが、その筆頭は新参者の馬超でした。因みに二番目は許靖で、こちらも成都陥落後に劉備軍に入った人物です。
では、何故?この二名が連署の筆頭にいたのでしょう?
新参者馬超の将軍号が蜀政権を動揺させた
それは、この両名の官位が蜀の面々の中ではとくに高いからでした。筆頭の馬超は、平西将軍でこちらは三品、なんと劉備の左将軍と同列です。
馬超が曹操に反旗を翻した時、征西将軍を自称した事は分かりますが、いつ平西将軍に遷ったのかは分かりません。どちらの将軍号も自称だとは思うのですが、一応、献帝には上表し表面上の体裁は整えておいたのでしょうか?
あ、許靖は鎮軍将軍で同じく三品の将軍号、諸葛亮は5番目の署名で軍師将軍という臨時でつけられた将軍号です。
この時点で劉備の立場があやふやになってくるのは分かります。
馬超は劉備の配下なのに、将軍としての地位は同じという事です。
しかも、馬超は新参者であり、蜀政権への貢献はさほどでもありません。にも関わらず、劉備と苦楽を共にしてきた関羽や張飛よりも、馬超の地位は郡を抜いて高いのです。これを放置しておくと、蜀政権に軋轢を生む可能性がありました。
正史三国志馬超伝に引く、山陽公載記には、馬超が劉備を字名で呼んだので、関羽と張飛が怒りこれを殺そうとしたという伝聞情報があります。
これは益州にいない筈の関羽が出てくるあたり、信憑性に難がありますが飛びぬけて官位が高い馬超に対する古参武将のやっかみが造り上げた
風聞と考えると、納得できる部分もあります。
劉備は左将軍であり、王に即位しない限り、馬超より上の地位を部下に与える権限がありません。体育会系的な序列で動いていた蜀政権は、飛びぬけて名門の馬超の前に激しく動揺する事になりました。これを乗り越えるには、劉備自身が王に即位し、自ら部下に官位を与えられる立場になる必要があったのです。
【北伐の真実に迫る】
漢中王劉備は臣下に将軍号を大盤振る舞い
さて、献帝の返事を待たずに漢中王に即位した劉備はさっそく馬超の加入で、乱れた蜀政権の序列の再編成に取り掛かります。例えば、劉備が漢中王になる前は征虜将軍で三品でしたが右将軍になります。
右将軍も征虜将軍も三品なんですが、前後左右将軍の方が歴史が古く文官では九卿に匹敵するので格式が上でした。
荊州に留まっていた関羽は、五品の盪寇将軍が三品の前将軍に昇進。面白いのが黄忠で、五品の討虜将軍だったのが、夏侯淵を討って二品の征西将軍に昇進。
ところが、劉備が漢中王に即位すると三品に落ちて後将軍になっています。
なんだか、黄忠からすると損した気分ですが、関羽、張飛と同列の前後左右将軍で足並みを揃えたと考えると、古参と同様と評価されたわけですから、逆に黄忠の重鎮ぶりが垣間見える官位とも言えます。
序列を乱す原因になった馬超は、劉備が名乗っていた左将軍を受け継ぎ前後左右将軍のポストに収まりました。ここでも、馬超のプライドを傷つけない劉備の配慮が見えます。官位は変わらないものの、元々主君が持っていた将軍号だからというプレミア的な手法で馬超を納得させたのです。
劉備時代は不遇だった趙雲
ちなみに趙雲は、この序列再構築とは無関係で翊軍将軍という五品の雑号将軍でした。
しかし劉備が死んで劉禅が即位すると二品の征西将軍から鎮東将軍に遷ります。
つまり、劉備在世中、趙雲はポスト的には不遇だったのです。
いずれにせよ、劉備は王を僭称するというデメリットを受け入れても、蜀軍の序列を再構成するという実利を選びました。その試みは成功し、動揺していた蜀政権は安定を取り戻します。ただ、配下の武将が揃って昇進した事で、支払う俸給は急増し、蜀の民衆は重税に喘ぐ事にもなります。
劉備を中心に蜀政権は軍事独裁国への道を突き進んでいくわけです。
三国志ライターkawausoの独り言
どうして、自称平西将軍の馬超にこれほど劉備が気を遣うのでしょうか?
それは、馬超が将軍号を抜きにしても後漢の名将、馬援の子孫であり同時に父の馬騰が羌族との混血であり、馬超も羌族から声望を得ていた為です。前漢景帝の末裔という劉備の自称も、益州では地味なものであり、馬超を取り込みつつ官位を整備して傭兵集団に箔をつける為に劉備は知恵を絞ったのではないでしょうか?
それは、疑似血縁で結びついた任侠的集団だった劉備軍が、組織の序列で王朝として再編成される契機でした。
参考:劉備と諸葛亮カネ勘定の「三国志」/167p~168p/文春新書/ 柿沼陽平/2018年5月20日一版/
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