蜀(221年~263年)の建興12年(234年)に諸葛亮は、魏(220年~265年)への北伐に挑みました。北伐はこれで5回目です。しかし、この北伐で以前から諸葛亮と仲が良くなかった魏延の不満が爆発!魏延は毎日、軍中で諸葛亮の悪口を言って回ります。
やむを得ないと判断した諸葛亮は馬岱に命じて魏延を排除する計画を立てました。今回は横山光輝氏の『三国志』をもとに諸葛亮による魏延排除計画を解説します。
※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく翻訳しています
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魏延抹殺計画
魏延の悪口が嫌気がさした諸葛亮は魏延を抹殺することに決めました。そこで馬岱を呼び出して、葫蘆谷に火薬の設置を命じます。だが、火薬の発明は宋(960年~1279年)になってからの発明です。上記の内容は『三国志演義』のフィクション。
話を戻します。しばらくすると馬岱から準備完了の報告が届きます。諸葛亮は次に魏延を呼び、「七星の旗まで魏軍をおびき出してほしい」と頼みます。「当然、勝てますよね?」と魏延は言いました。彼は諸葛亮をなめていたのです。諸葛亮もカチンときますが、「勝てる」と言って送り出しました。
司馬懿死す?
蜀軍はしばらくの間、遭遇した魏軍に負け続けます。ただ負けるのではなく、適度に戦って負けて帰っていました。そのため、司馬懿は何も疑いません。魏軍は少しずつおびき出されていきました。こうして連戦連勝を重ねた魏軍の前に魏延が現れます。司馬懿は早速、迎え撃ちました。
魏延は強い。彼が率いている兵士は少数ですが、魏延が猛将であるため、魏軍は次々と蹴散らされていきます。ところが時間が経過するにつれて、魏延にも疲労感が出始めました。これ以上の戦闘継続は不可能と判断した魏延は撤退を決意。
これぞ好機と悟った司馬懿は追撃を開始しました。こうして魏軍は葫蘆谷まで侵入します。「勝った」と思った司馬懿でしたが、その瞬間・・・・・・周囲が一斉に火に包まれて、それどころか、爆発まで起きました。
「謀られた」と悟った司馬懿でしたが、辺り一面炎に包まれており逃げ出せません。長男と司馬師と一緒に覚悟を決めました。
だが天はまだ司馬懿を見捨てていません。突如、ゲリラ豪雨が降ってきたのでした。この豪雨は炎をあっという間に消してしまいます。「助かった」と思った司馬懿は、すぐに葫蘆谷して陣に戻ります。
怒りの魏延と災難の馬岱
一方、こちらは魏延。彼はカンカンに怒っていました。魏延は司馬懿を葫蘆谷に誘い込んだ後に帰ろうとしたのですが、兵士から葫蘆谷に置き去りにされていたのです。兵士は諸葛亮から買収されていたのでしょう。
魏延は諸葛亮の仕業とすぐに気づきました。不幸中の幸いにもゲリラ豪雨のおかげで、魏延も助かります。帰還した魏延は、「ふざけるな!」と諸葛亮にくってかかりました。ところが、諸葛亮は「確かにふざけている」と言って、なぜか馬岱を呼びます。
呼ばれた馬岱は諸葛亮から「お前のせいで魏延将軍が死ぬところだったぞ!」と厳重注意。それだけではなく五十杖の刑を執行、さらに将軍から一兵卒に降格処分。いくらなんでもひどすぎる・・・・・・突然のことで馬岱は「?」です。五十杖の刑でボコボコにされて、「わけ分かんないよ」と泣いたり怒ったりしている馬岱のもとに、諸葛亮の部下である樊建が、今回の一件について説明します。
樊建は最後に「丞相(諸葛亮)は馬岱殿に申し訳ないと思っています。この件に関しては莫大な恩で返す、と約束されました」と言いました。それを聞いた馬岱は納得します。それから数日後に、魏延は「一兵卒になった馬岱を私に貸してください」と言ってきました。マンガやDVDをレンタルする感覚と一緒ですね。
「ちょっと考えさせて・・・・・・」と返答した諸葛亮は馬岱と相談。馬岱は諸葛亮のためを思い、「魏延を監視します」と言って魏延軍に行くことを決意。こうして馬岱は魏延軍に行きました。
三国志ライター 晃の独り言 なんで歴史や中国史に興味を持った?
本日は筆者のことについて少し解説していきます。少しでも読者の皆様に筆者のことを知ってもらいたいと思って話します。筆者は「いつから歴史に興味を持ったのですか?」と聞かれることが度々あります。これは6歳ぐらいだったと思います。親族が持っていたジャンヌ・ダルクの生涯を描いたマンガを読んだのが最初でしたね。
「中国史じゃないの?」と思われるかもしれませんが、実は筆者が最初に興味を持っていたのは西洋史・日本史・考古学です。中国史に興味を持ったのは10歳からであり遅かったのです。
「なんで中国史に興味を持ったのですか?」という質問もよく人から受けます。この理由は単純であり2、3文字の人物名なら覚えやすいと思ったからです。「くだらねえ」と感じるかもしれませんが、それが本当の理由です。本日はここまで。また機会があったらお話します。
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