史実から読み解く魏延の漢中太守抜擢と同僚とのトラブルを考察

2019年12月12日


 

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劉備が大好きな魏延

 

魏延(ぎえん)は蜀(221年~263年)の将軍です。劉備(りゅうび)には非常に可愛がられますが彼の死後、諸葛亮(しょかつりょう)とは軍事面で意見が全く意見が合わずに次第に孤立していきます。

 

「ここにいるぞ!」と言いながら魏延を切る馬岱

 

最期は諸葛亮の死後、王平(おうへい)の部下である馬岱の手により殺されてしまいました。ところで史実の魏延はどのような人物なのでしょうか。今回は正史『三国志』をもとに魏延の漢中太守抜擢と彼がトラブルを起こした人物について解説します。

 

自称・皇帝
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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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謎の漢中太守抜擢

蜀の魏延

 

魏延は荊州義陽郡の出身です。劉備に仕えた正確な時期については史書には何も記されていません。

 

周瑜、孔明、劉備、曹操 それぞれの列伝・正史三国志

 

小説『三国志演義』では、建安14年(209年)に関羽(かんう)が長沙を攻めた時に太守の韓玄(かんげん
)
を殺害して降伏することになっています。しかし史実の韓玄は殺されてもおらず、また魏延も韓玄に仕えた形跡は無いのでこれらの話はフィクションです。

 

馬に乗って単身荊州へ赴く劉表

 

おそらく上記の時期、または劉備が劉表(りゅうひょう)の食客だった時期に入隊したと推測されます。建安16年(211年)に劉備は劉璋配下の法正や張松と連絡をとって、劉璋から蜀を奪う計画を立てました。

 

魏延

 

魏延はこの時、劉備に従って蜀に入ります。そして劉璋との戦いでたびたび活躍しました。戦争後はその功績により「牙門将軍」に任命されました。これはサラリーマンでいったら、係長クラスです。

 

法正に敗れる夏侯淵

 

建安24年(219年)定軍山(ていぐんざん)夏侯淵(かこうえん)を破って、漢中から曹操を撃退した劉備は漢中王になりました。この時、漢中の責任者に誰が任命されるか噂になりました。序列で考えたら関羽ですけど、彼は荊州にいるので除外されます。

 

魏延

 

そうなると残りは張飛しかいません。周囲の人々は「絶対に張飛(ちょうひ)だ」と思っていました。ちなみに張飛も「絶対に自分だ」と自負していたようです。ところが、劉備が任命したのは意外なことに魏延でした。もちろん、みんなびっくりです。

 

現代で例えるのなら昨日まで支社の係長だった男が、いきなり本社の部長になっている、という感じです。劉備が魏延を漢中太守に任命した件について、残念ながら史料は何も語っていません。しかし、劉備はどうして当時無名だった魏延を抜擢したのでしょうか。

 

張飛にボコボコにされる魏続(ぎぞく)と宋憲(そうけん)

 

張飛を抜擢しなかったのは、部下に対しての暴力行為を劉備自ら諫めても改めることが無かったからと推測されます。

 

ボロボロになった馬超

 

黄忠(こうちゅう)馬超(ばちょう)もいたから彼らで十分ではと筆者も最初は考えました。だが、黄忠は延康元年(220年)、馬超は蜀の章武2年(222年)には亡くなっています。おそらく魏延抜擢の時点で前線守備の重圧に耐えれる体調ではなかったと考えてもおかしくないです。

 

だから、魏延に白羽の矢が立ったのでしょう。

 

同族嫌悪で他人とトラブルを起こす魏延

蜀の魏延

 

劉備から抜擢を受けたお気に入りの魏延ですが、どうも彼は他人とのトラブルが多かったようです。具体的な事例を出せば1人目は劉琰(りゅうえん)。彼は興平元年(194年)から劉備に従っていました。弁舌が得意であったことや名字が「劉」だったので、劉備から非常に可愛がられます。席次も李厳(りげん
)
の次、軍議も諸葛亮と一緒に参加することが可能。まさにVIP待遇!

 

ところが劉琰の正体は何もしない社内ニート!本人も分かっているのか平気な顔をしている。

 

蜀の建興8年(230年)に魏延は劉琰(りゅうえん)とトラブルを起こします。理由は分かっていませんが魏延も劉琰に対する長年のうっ憤が溜まっていたと思います。劉琰は仕返しに魏延に対するデマを流しました。これが逆効果で諸葛亮から厳しい取り調べを受けました。

 

その結果、魏延は何も処罰は受けませんでしたが、劉琰は成都に送り返されました。

 

仲の悪い魏延と楊儀

 

2人目は楊儀(ようぎ
)
。彼も劉備に気に入られて抜擢された人材でした。劉備の死後は諸葛亮の側近として仕えます。

 

楊儀と魏延

 

魏延とは犬猿の仲であり軍議の場で言い争いになると、魏延は剣で楊儀を脅していたようです。おそらく魏延は口で言い負かされそうになるから、そんな手段に出ていたのでしょう。

 

蜀の魏延

 

3人目は諸葛亮。これは説明が不要なほど有名です。魏延は(220年~265年)への北伐のたびに長安急襲計画を立てました。

 

魏延からの提案を却下する孔明

 

しかし諸葛亮は危険すぎるのでダメ、と断っています。そのため魏延は「諸葛亮のせいで俺の才能が発揮出来ない」といつも怒っていました。

 

不満が溜まる魏延

 

このように魏延は他人とトラブル起こすことが多いですが、いずれも共通しているのは自分と同じように劉備のお気に入りだった将軍や文官ばかりです。おそらく同族嫌悪というやつでしょう。「俺の方が劉備様に可愛がられていたのだぜ。お前らとは格が違う」と言いたかったのでしょうか?

 

三国志ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

魏延のように平社員から成り上がっていく姿はまるで、『課長 島耕作』を見ているようです。ただ、同僚とトラブルを起こしている時点で、あまり世渡りが上手な人とは言い難いですね。

 

劉備に可愛がられたのも乱世だったからであり、太平の世なら全く貴重な存在とは言い難く、下手すると地方に左遷されて、そのまま生涯を終えていた可能性もありました。

 

実際に太平の世であった北宋(960年~1127年)は乱世の五代十国時代(907年~960年)が終了すると、将軍の権利を剝奪するという手段に出ています。魏延も生まれる時代を間違えたら、全く活躍出来なかったでしょうね。

 

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