公家というと、顔を白く塗り、眉を剃り落としお歯黒で歯を黒く染め毎日和歌ばっかり詠んでいる生活力に乏しい人々というイメージかと思います。ところがそんな公家の姿は江戸時代に入ってからのものであり、戦国の公家は見た目はナヨナヨしていても、独立して金を稼ぐライフハッカーが多かったのです。
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この記事の目次
蹴鞠と和歌の講師として生計を立てる飛鳥井雅綱
戦国時代は各地で紛争が勃発し、京都に住む公家が収入源にしていた各地の荘園からの収入も途絶したり激減したりしました。このままでは食えない公家たちは、自分達の家が先祖代々、伝承してきた技術を武家や裕福な町人に伝授する事でお金を得て食べていく事を思いつきます。
その中で蹴鞠と和歌の腕で抜きんでていたのが飛鳥井雅綱です。彼は京都から地方に下向しては和歌や蹴鞠のインストラクターとして活動し、弟子を取る度に二百から五百疋の束脩と呼ばれる入門料を取って生活していたそうです。これは現在の価格だと30万円から75万円に当たります。
今から見ても入門料がかなり高く強気な商売に見えますが、実はそうでもありません。当時は束脩を支払うと、以後生徒が支払う会費などはありませんでしたから、せめて束脩を大目に取らないと講師としては引き合わなかったのです。
当時は応仁の乱で京都の文化が日本中に伝播している時期であり、蹴鞠も和歌も高貴で風流な教養だったので、相応のレベルがあれば引く手は数多だったとか、、この飛鳥井雅綱は、天文二年(1533年)尾張の織田信秀に招かれ織田家中の人々を次々と弟子にして、大金を稼いでいたようです。
和歌と蹴鞠の腕を口コミで拡散し、金銭に変えてしまう。まさに飛鳥井政綱は戦国時代のライフハッカーですね。
カリスマ儒学講師 清原宣賢
戦国時代、一目置かれるサムライになる為には教養は必須でした。いくら槍働きが出来たとしても無学文盲では、田舎者の野蛮人としてサッパリ威張れなかったのです。例えば、清原宣賢は、公家のランクは中の下クラスの下級でしたが、国学者・儒学者として歴史上屈指の碩学として知られていました。越前朝倉氏、能登畠山氏、若狭武田氏に招かれては、それぞれの家中に儒学の講義をして生計を立てていたようです。
清原の地位は明経博士でしたが、京都が寂れて教授では生活できないので、カリスマ講師に転身して、各地で引っ張りだこになったという感じでしょうか?結局、宣賢はこれらの諸国を往来する内に病気になり、越前一乗谷で75歳で死去していますが、一乗谷が小京都と呼ばれる程文化的に興隆したのは清原の力も影響しているのです。
源氏物語を丸々写本して販売 三条西実隆
天文六年(1537年)に没した三条西実隆は正二位内大臣まで昇進したエリートですが、彼は、途絶した荘園輸入の代替として、カルチャー講師として北は奥州から南は九州まで移動を繰り返しつつ、古典を教え、和歌を添削、批評し短冊に揮毫し、時には将棋の駒に字を書く事までやりました。
また、実隆は源氏物語の写本を所望した、能登の畠山義元と肥後の鹿子木親信に対して、源氏物語五十四巻を販売し、三千疋、現在の価値で450万円を得ています。実隆は、マメな性格とアグレッシブな行動のお陰で、途絶した荘園収入を副業で埋めまくり、大永年間には荘園収入に匹敵する金額を副業で稼いだそうです。
今風に言えば、元キャリア官僚で、色々あって官僚を辞職したが、今度はそのキャリアを活かし日本全国を講演したり、本を出しまくったり、テレビで冠番組を持って視聴率を取って荒稼ぎしているタレントみたいですね。
公家だけど医師開業 山科言継
言継卿記でも有名な山科言継は、権大納言まで昇格しながら、やはり荘園収入が戦乱で途絶えがちになり金策に迫られる事になります。そこで山科言継が副業に選んだのは、薬の調合でした。元々医学に興味があり医師との付き合いがあった言継はオタク的な探求心で薬の調合を覚えて販売、これがよく効くと評判になり、宮廷の女官や公家仲間に薬を売りまくります。
さらには、町人で病人が出ると往診までするようになり、直接診断した後でなければ、薬を出さない等、かなりのプライドを見せていて、ここまで来ると本当の医者顔負けです。しかし、そういう潔癖な性格が祟ってか、山科家の財政は火の車で、何度も家宝や家財道具を質に入れては、収入を得てから受け出すという事をしていたようです。
自分の作品の安さに後奈良天皇ブチ切れ
副業をしていたのは公家ばかりではなく日本の頂点に立つ天皇もそうでした。戦国時代の天皇である後奈良天皇は、女官に求められ源氏物語の文章や歌などを二十数枚の短冊に書いて渡しました。後に女官は御礼として五百疋(75万円)を天皇に差し出しましたが、これに対し天皇は日記で、「軽微の至り比興、比興」と記したそうです。
現代の意味では、「なんと、これっぽっちであるか、面白うない、面白うない」で、天皇が内心不満であった事を記しています。幼い頃から稽古をし心を込めて書技が、僅か1点3万円とは、、いかに実力主義の時代とはいえ、天皇も嘆かわしかったのでしょう。
後奈良天皇は宸翰(直筆)を売って乏しい皇室費の足しにしていた立派なライフハッカーでしたが、おそらく宸翰の値段に比べても女官の御礼がダントツに安かったのでしょう。これだけ書くと、後奈良天皇は銭ゲバ天皇のように見えますが決してそうではなく、天文四年(1535年)に一条房冬を左近衛大将に任命した時は、房冬が秘かに朝廷に銭1万疋(1500万円)の献金を約束していた事実を知ると「献金が欲しくて任官したのではない」と献金を突き返しています。
戦国時代ライターkawausoの独り言
律令制が崩壊し、然るべき地位にいても収入が得られなくなった戦国時代は、終身雇用が崩壊し高い学歴がそのまま安定した雇用に結びつかない現代と二重写しに見えます。大変な時代に生きていた戦国の公家ですが質屋通いの中でも、それぞれの家でささやかに酒宴を開くなどして泥酔し玄関に寝てしまうなど羽目を外す事もあったとか、、どんな時代でも、自分にしかない能力をお金に変えられる人は強いですね。
参考文献:日本人の給与明細 古典で読み解く物価事情 山口博
参考文献:真実の戦国時代 渡邊大門編
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