『三国志演義』で劉備は困った人は見捨てておけない義理人情の人とされています。もちろん、それは小説の中の話であり現実世界は義理人情だけで渡っていけるほど、甘くありません。しかし実際の劉備はどうだったのでしょうか?そこで今回は史実の劉備が義理人情の人だったのか考察します。
「劉備 義」
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まさかの借金踏み倒し!?
中平元年(184年)に黄巾の乱が起きると劉備は挙兵します。この時に劉備は中山の張平世・蘇双という2人の商人からお金をもらって、それを元手に軍備を整えました。2人とも劉備がただ者ではないと思ったから資金を提供したようです。この話は横山光輝『三国志』でも採用されているので、記憶している読者の皆様もいるはずです。
だが、これはおかしな話。当時の劉備は24歳でしかも社会的な地位も実績も無し。そんな若僧にベテラン商人がお金なんて簡単に投資してくれると思うでしょうか?
『キングダム』の呂不韋でしたら絶対にしてくれないでしょう。なんといっても商談では値切ったことがないほどですから・・・・・・残念なことに劉備が張平世・蘇双にお礼をした話はありません。1番考えられるのは借金踏み倒しですね(笑)
せめて前漢(前202年~後8年)初代皇帝の劉邦みたいに占い師のおじいさんにお礼をしようと捜索した話さえ残っていれば救いがあるのだが・・・・・・
義理人情の人は平原の相時代に作った偶像だった?
初平3年(192年)に公孫瓚に従って袁紹と戦った劉備は、その功績により平原の相に任命されました。ところが劉備のことを嫌がった郡民の劉平は劉備の暗殺を計画します。
劉平が劉備を暗殺しようとした詳細な理由については正史も裴松之が史料として採用した『魏書』にも記載がありません。
心当たりがある件と言えば、劉備が安喜県の警察署長時代に監察としてやって来た督郵をボコボコにした話です。劉備の督郵傷害事件が世間に広まっており、「劉備軍=暴力団」のイメージが民の間に根付いていたのかもれません。劉平や土地の人からすれば、そんな危ない連中は土地から消えてもらいたいと思ったので暗殺を企んだのでしょう。
しかし、この暗殺は失敗に終わります。なんと暗殺者が劉備に懐柔されるという結末に終わるのです。劉備はやって来た相手が暗殺者とは知らずに、おもてなしの心で出迎えます。心を打たれた暗殺者はその場でペラペラしゃべってしまい、劉平の計画は頓挫したのでした。
もちろん劉備だって、いくつもの戦場を渡り歩いてきたプロフェッショナル。面会に来た相手が普通ではないことぐらい見れば分かるはずですし、事前に情報を仕入れていたことでしょう。劉備だってこんなことをされては腹が立ったでしょう。だが、安喜県時代と違い劉備も年齢を重ねています。同じ轍を踏むわけにはいきません。
そこで劉備が行ったのが自分を変えることでした。『魏書』によると当時、平原は盗賊の略奪と飢饉に苦しんでいました。劉備は盗賊を撃退、飢饉に苦しむ人々を援助。さらに、身分の低い人々とも食事を一緒にしていました。
つまり、劉備は自分を義理人情の人物に見せる演出を行ったのです。この作戦が見事に的中したのか、人々はいつの間にか劉備のことを信頼するようになりました。『三国志演義』における劉備=義理人情の人というイメージは平原の相時代に作られた偶像だったのです。
三国志ライター 晃の独り言 ネタばれ言った私
私は毎日、『キングダム』を読んでいます。このマンガは面白くて・カッコよくて最高です!蒙恬が格好良すぎですね。そう言われてみれば、3年前に職場に『キングダム』が好きな同僚がいてよく話していたことを覚えています。
ちなみに、その同僚は歴史に詳しくない人であり蒙恬が万里の長城の建設に関わっていたことも知らなかった。また蒙恬が趙高と李斯に毒殺される結末を言ったら、かなりショック受けていた。
ネタバレ言ってしまい、スイマセン・・・・・・たぶん原先生は、そんなところまで描かないと思います。
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