麒麟がくる第7話では、斎藤利政(道三)がかつて織田信秀に奪われた大柿城を奪還します。
当初は優勢だった信秀ですが、同族の織田彦五郎に本拠地の猿渡城を攻撃され、城を諦めるしかなくなったのです。北に斎藤、東に今川、内部に織田彦五郎と、にっちもさっちもいかなくなった織田信秀は、宿敵斎藤利政と縁組により同盟を結ぼうとするのですが、その切っ掛けになった織田彦五郎とは、何者なのでしょうか?
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この記事の目次
尾張下四郡の守護代清須織田家に生まれる
織田彦五郎は通称で本名は織田信友と言い、尾張下四郡を支配する清須織田家に生まれました。本来織田家は守護の斯波氏の代官でしたが、戦国の世で主君の斯波氏が弱体化、尾張は尾張上四郡を支配する岩倉織田家と、下四郡を支配する清須織田家に分裂していました。清須織田家は、傀儡の守護として斯波義統を奉じています。
織田彦五郎は、織田達勝の後を継いで守護代になりますが、尾張下四郡の実質的な支配者は、すでに清須織田家でもなくなっていました。尾張の実権は良港の津島・熱田を抑えた配下の清須三奉行の一人、織田弾正忠家の織田信秀に移っていたのです。
先代の当主の織田達勝は、上り調子の織田信秀に協力していましたが、信秀が加納口の戦い、小豆坂の戦いで相次いで敗れ、さらに、斎藤氏に攻められた大柿城の救援に向かうと織田彦五郎は重臣坂井大膳の進言に従い信秀不在の猿渡城を攻めたのです。
信秀側の平手政秀の周旋で一度は和睦
織田彦五郎は、坂井大膳、坂井甚介、川尻与一のような名将を押し立てて猿渡城を攻撃、帰還した信秀はこれを防ぎますが、戦いは一進一退になります。信秀は平手政秀を交渉役に立て、翌年天文十七年(1548年)の秋に和睦します。
この後、清須織田家と織田弾正忠家の関係は小康状態になりますが、織田信秀が天文二十二年に死去して、うつけと評判の織田信長が家督を継ぐと、彦五郎は信長の弟の織田信勝を支持し、信長に戦いを挑む事になります。
萱津の戦いで敗北坂井甚介を失う
信長が家督を継ぐと、早速尾張に動揺が走ります。織田信秀に従っていた鳴海城主、山口教継・教吉父子が駿河の今川義元に寝返り、信長と教吉の間で赤塚の戦いが勃発したのです。信長は800程の軍勢を率いて戦いますが、痛み分けになり、即日、那古野城に引き上げます。これを見て、清州の坂井大膳が同僚の坂井甚介、河尻与一、織田三位と謀り、信長サイドの松葉城と深田城を攻略、織田伊賀守と織田信次を人質にしました。
なんだか織田彦五郎の影が薄いですが、この頃には清須織田家の実権は坂井大膳に握られていたようです。
報告を聴いた信長は直ちに那古野城から出陣すると、守山城から叔父の織田信光が援軍にやってきます。信長は兵力を3方向に分け、自らは信光と一手になって庄内川を越し、海萱津へと移動、午前8時頃に戦端が切られ激戦の末、清州方の重臣、坂井甚介が討ち死にします。その首は、中条家忠と柴田勝家が二人がかりで取ったそうなので、坂井は相当な剛の者だったかも知れません。
50名余りの手勢を失った清須方は、松葉城と深田城に籠城しますが、ここも数時間の激戦で陥落し、清須方の軍勢は城を明け渡し逃げてゆきます。勢いに乗った信長は、そのまま清須城下の田畑を薙ぎ払い、悠々と引き上げていきました。
守護斯波義統を殺害し窮地に陥る
その後、織田彦五郎は信長を暗殺しようとしますが、守護の斯波義統の部下から計画が漏れて失敗します。清須織田家が傀儡としていた斯波義統は、織田彦五郎が今川義元と通じて、尾張に今川の勢力を引き込んでいると嫌悪し、密かに信長に通じようとしていました。
これを知った彦五郎は、天文二十三年(1554年)重臣の坂井大膳と謀り、斯波氏の家臣が跡取りの斯波義銀に従い城外に出た隙を突いて、城内に残った斯波義統を殺害します。
しかし、これは最悪の決断でした。父が殺された事を知った義銀は信長を頼り逃亡。信長はこのチャンスを逃がさず義銀を保護し、織田彦五郎を主君殺しの大逆人と罵倒して、討伐の軍を起こすのです。
柴田勝家に安食で大敗
天文二十三年、7月18日、その頃、織田信勝に属していた柴田勝家が信長に合流して清須に出陣します。しかし、どうして信長と利害が対立する柴田勝家が清須に攻めこんだのでしょうか?これは、どうやら織田信勝が弔い合戦の主導権を信長に握られるのを恐れた為と推測されます。
早い話が、例え傀儡でも主君を殺すのはこの段階ではまずかったんですね。
柴田勝家は長槍部隊を率いて、三王口、安食と攻略、清須勢は請願寺前で持ちこたえようとするも、槍が短いので太刀打ちできず、境内に侵入され、川尻与一、織田三位が討ち死にしました。清須織田家を支えてきた重臣は、これで坂井大膳だけになります。
織田信光に騙されて清須城を失い自害
たった一人になった坂井大膳は、これではやっていけぬと守山城の織田信光に接近し清須城に入り、織田彦五郎と共同で守護代になってくれないかと打診します。信光は二つ返事で承諾し、決して約束を違えないと誓約書を出し、清須城の南櫓に入りますが、同時に信長にも取引を持ち掛けていました。
「尾張下四郡の半分を与えると約束してくれるなら、織田彦五郎を討って差し上げよう」
もちろん、信長は大喜びで了承します。
反逆の決意をした織田信光は、坂井大膳を騙し討ちにしようと待ち構えますが、大膳は異様な雰囲気を感じ取り駿河に逃亡。それを知った信光は、清須城にいた彦五郎を主君殺しと詰り、追い詰めます。もう逃げられないと悟った彦五郎は、大人しく腹を切り死亡しました。この時、清須織田家は滅亡したのです。
戦国時代ライターkawausoの独り言
織田彦五郎は清須織田家の当主ながら、その実権は小守護代の坂井大膳に握られた傀儡だったようです。確かに史料を見ても、織田彦五郎の名前はあまり出てきません。でも、一応、守護代家のトップに居る以上、一切私は関係ありませんとはいかないでしょう。最終的に詰め腹を切らされたのは仕方ないでしょうね。
参考文献:現代語訳 信長公記 新人物文庫