美濃の守護として傀儡の土岐頼芸がいるように、尾張にも守護斯波義統という人物がいました。土岐氏同様に守護代の織田氏に翻弄された斯波氏ですが、敵の敵は味方で織田信秀・信長には好意的に接していき、やがて彼の死が信長に尾張統一を果たさせる原動力になるのです。
関連記事:【麒麟がくる】織田彦五郎とはどんな人?主君を殺し滅亡した尾張守護代
関連記事:鎌倉時代の警察の役割を果たした「守護」を分かりやすく解説
この記事の目次
武闘派だった父斯波義達の嫡男として誕生
斯波義統は永正十年(1513年)尾張守護斯波義達の嫡男として誕生します。元々斯波氏は足利一門で、兵衛督、兵衛佐を歴任した武門の家柄で武衛家と呼ばれていましたがこの頃は応仁の乱後の余波を被り、駿河守護の今川氏親の攻勢を受けて遠江を奪われる事態に陥っていました。
義達は永正10年に反攻を図って遠江の国人大河内貞綱や井伊直平と共に遠州に進撃しますが、氏親配下の武将・朝比奈泰以と飯尾賢連の前に大敗を喫しました。
この大敗は、守護斯波氏の勢力の低下を招き、配下だった守護代織田氏の反抗を呼び起こします。
元々、義達の遠江侵攻に批判的だった清須織田家の守護代、織田達定は義達に反旗を翻しました。斯波義達は織田達定と戦いこれを撃破して達定を自害に追い込みます。
邪魔者が消えた義達は、その後も遠江に侵攻、永正十二年引馬城で再度今川氏親と戦いますが大敗し捕虜になる屈辱を受けます。同じ足利一門という事で義達は助命されますが、その条件として剃髪、出家を余儀なくされ、僅か3歳の義統に家督を譲り隠居します。
幼少の為清須織田家の傀儡となる義統
尾張では応仁の乱後に守護代の織田家が分裂、尾張上四郡を支配する岩倉織田家と下四郡を支配する清須織田家に分裂していました。抗争の中、最初に岩倉織田家が没落。その後、勢力を伸ばした清須織田家の織田達定も、斯波義達の遠江侵攻に反対し反旗を翻し討伐された事で、こちらも没落します。
両守護家の没落により清須織田家の分家である清須三奉行の一人、織田信定が津島と熱田の海運を抑えて急激に勢力を伸ばしその地盤は息子の織田信秀に引き継がれてさらに強化されました。ある意味、斯波義達の清須織田家の討伐が、織田信秀が勢力を伸ばす遠因になったと言えます。
清須織田家の織田達勝と織田信友は、織田信秀や岩倉織田家を牽制すべく幼少の斯波義統を迎え傀儡としました。もちろん、清須織田家に斯波氏に権力を返すつもりはなく、義統は籠の鳥として忍従の日々を過ごす事になります。
成人した斯波義統は織田信秀に接近する
斯波義統は、天文六年(1537年)4月から寺領安堵状の発給が見られ、傀儡なりに尾張統合の象徴としての役割を演じます。これは、美濃の土岐頼芸が実質権力がなくても、美濃の豪族の統合の象徴であったのと同じです。しかし、守護代の傀儡である義統がストレスと無縁であったハズもなく、必然的に清須織田氏を押しのけて台頭する織田信秀に対し好意的な目線を向ける事に繋がります。
例えば、1544年に信秀が美濃へ侵攻した時には、義統は信秀よりも格上の岩倉織田家や同輩の因幡守家などにも動員の下知を降すなど信秀が各地に討って出るのには好意的な態度を取っています。ただ、傀儡の斯波義統が自分の政敵である織田信秀と仲良くする事は清須織田家にとっては、不快な事でしかありません。こうして斯波義統と清須織田家当主の織田彦五郎(信友)の間で深刻な不和が広がる事になります。
【次のページに続きます】