今回はちょっと趣向を変えて、関羽の死に関わってしまっている武将、糜芳の顛末を分かりやすく説明していきたいと思います。というのも糜芳と言うと三国志の武将たちの中でも好かれていないというか、嫌われている武将というイメージが強いですよね。ある意味、嫌われているからこそ目立ってしまっている糜芳について、皆さんにもっと知って頂きたいと思います。
糜方のその生涯~前編~
さて糜芳の生涯を説明していきましょう。
糜芳は麋竺の弟です。麋竺は劉備の支援者ということもあって、弟である糜芳もその縁から劉備の陣営に加わっていきました。後に劉備が蜀の地を取ると、荊州都督の地位にあった関羽の配下となり、南群の太守に任命されることとなります。これこそがある意味、関羽や糜芳、麋竺や劉備までの運命をも変えたのかもしれません。
元々あまり関羽とは折り合いが良くなかったようではありますが、樊城攻めをやっていた関羽が糜芳、士仁に援軍要請をした際には後方支援として補給物資を送るのみに留めました。
とは言え補給物資を送るのも十分な援助ですし、対呉の重要拠点である南から兵士を動かしたくなかったのかもしれません。
が、この補給で出火事件を起こしてしまったことで関羽に激怒され、自分が凱旋した際には罰すると脅され、かなり糜芳は追い詰められていたと言われています。
糜芳の生涯~後編~
そんな糜芳と関羽の不和、糜芳の不安と苦悩を孫権に知られてしまったのか、糜芳は孫権と内通するようになり、後の裏切りに繋っていきました。
関羽を裏切った糜芳は正史によるとその後は孫呉の配下武将となり、呉書によると後に魏に寝返った武将が反乱を起こした際に討伐したという記述がありますが、それ以降は謎のまま糜芳の記述はここで終わります。
しかし関羽を裏切った、関羽は死んだが糜芳は生き残った、そして何よりも弟である糜芳が呉に降ったと聞いた兄の麋竺は激怒し、苦悶の内に亡くなりました。これらの要素を含んでしまったためか糜芳は裏切り者としての悪名の方が有名になってしまい、特に三国志演義の蜀のファンである人、関羽のファンたちからはとても嫌われてしまっているのが現状です。
糜芳は正当な評価をされているのか?
……とは言え、正直な話をするとやはり糜芳の裏切りに関しては全てを擁護はできません。
一応フォローを入れますと、関羽の性格や部下の扱いなどに問題行動があったのはあったと思います。関羽は地位のある人間を嫌う傾向がありますし、結構なワンマンっぷりを荊州では見せています。また糜芳の降伏に関してですが良く言われている「糜芳は宴を開いて喜んで呉を迎えた」というのは、全てが間違っている訳でもなければ全てが正しい訳ではありません。
糜芳の降伏に関しては正史では記述が錯綜しており、関羽伝と呂蒙伝でも記述が違っているからです。呂蒙伝では当初籠城しようとしていた糜芳でしたが、同僚の士仁が呂蒙に連れてこられたことから城門を開けた、という記述も見られるからです。
しかし糜芳と同じ様な立場にあっても裏切らなかった武将たちも三国志にはいることを考えると、糜芳の裏切りはやはり立場的には許されない、擁護しきれないのではないか、というのが筆者の意見ですね。
当時の糜方の立ち位置から考えて見る
ちょっと最後に糜芳の立ち位置を考えて見ましょう。糜芳は麋竺の弟であり、麋竺は私財や妹も劉備に差し出して支援してきました。糜芳もその縁あって劉備に仕えたのではと思います。
そんな立場の人間が、しかも関羽を裏切って敵国に降った……というのは、麋竺から見れば憤死も止む無しとというものです。兄が憤死していることも糜芳の評価を下げてしまっているのだと思います。
ただしもしかしたら、そこまでした立場の人間が裏切るということは相当に追い詰められていたのでは……?とも、糜芳の立場から見ると思ってしまうのですね。個人的には糜芳は関羽の配下として働けるだけの能力、もしくはメンタルはなかったのではないか……と思うのですが、皆さんはどう思いますか?
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