秦檜よりもスゴイ売国奴?張松と法正ここにあり

2020年5月4日

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kawauso編集長(石原 昌光)

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kawauso編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務めるほか、紙媒体やWebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者・おとぼけ(田畑 雄貴)

コンテンツ制作責任者

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月に「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感していただけることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。

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秦檜(しんかい)

 

売国奴(ばいこくど
)
。国を売って利益を得る人を指します。中国で有名な売国奴は南宋(なんそう
)
(1127年~1279年)の宰相(さいしょう)である秦檜(しん かい
)
です。

秦檜(南宋の政治家)

 

秦檜は敵対していた(きん)(1115年~1234年)と密約を交わして、和議(わぎ)を結びました。その和議の結果、将軍の岳飛(がく ひ)が犠牲になります。秦檜の売国奴話は後世の歴史家による脚色(きゃくしょく
)
と言われており、今日では信用されていません。

法正と張松

 

ただし益州(えきしゅう
)
劉璋(りゅう しょう
)
に仕えていた張松(ちょう しょう
)
法正(ほう せい
)
は主人を劉備(りゅうび)に売った真の売国奴です。しかし、『三国志演義』の影響のために、それが感じにくいのです。今回は張松・法正の売国話について紹介します。

 

自称・皇帝
当記事は、
「張松 法正」
などのワードで検索する人にもオススメ♪

 

 

張松とは?

張松

 

張松という人物は正史『三国志』・『後漢書(ごかんじょ
)
』にも列伝は無しです。兄は張粛(ちょう しゅく)であり兄弟そろって益州(えきしゅう
)
長官の劉璋(りゅう しょう
)
に仕えていました。

歴史書をつくる裴松之

 

正史『三国志』に注を付けた裴松之(はい しょうし
)
が史料として採用している『益部耆旧雑記(えきぶききゅうざっき)』によると、ブサイクだったことが記されています。ちなみに、兄の張粛はイケメンでした。

 

劉璋にアドバイスをする張松

 

張松の仕事は別駕(べつが)です。正式名称は別駕(べつがじゅうじ)。別駕とは簡単に言えば家老(かろう
)
。主人が領地を視察する時に別の駕籠(かご)でついていくから、別駕と呼ぶのです。だが、張松は主人の劉璋が大器でないと思い見限っていました。

 

劉璋の失政

劉焉

 

益州は劉璋の父の劉焉(りゅう えん
)
が治めていましたが興平元年(194年)に劉焉は病死。息子の劉璋が後を継ぎます。

 

五斗米道(はじめての三国志)

 

劉焉は生前、益州で布教していた宗教団体「五斗米道(ごとべいどう
)
」の対応に苦労していました。五斗米道とは張角(ちょう かく
)
が創始した「太平道(たいへいどう
)
」に類似した団体でした。劉焉は五斗米道とは争わずに、平和的交渉を行っていました。

 

五斗米道の教祖・張魯

 

劉璋も父と同様の対応をするべきでしたが、五斗米道の総大将である張魯(ちょう ろ
)
の母と弟を殺害して関係を悪化させます。

 

張松、曹操に派遣される

曹操にキレて劉備を贔屓する張松

 

五斗米道に手を焼いた劉璋は曹操(そうそう)に助けを求めることにしました。そこで最初に張松の兄である張粛(ちょう しゅく)を派遣。益州が曹操に敵対しない姿勢を見せました。

 

曹操

 

喜んだ曹操は張粛を好漢郡(こうかんぐん)太守(たいしゅ
)
に任命します。ところが、別に張魯に対する援軍を送ることはありませんでした。建安13年(208年)に曹操は荊州(けいしゅう)劉表(りゅう ひょう
)
が亡くなったことを機会に荊州を制圧。劉璋は再び使者を曹操に派遣します。

 

三国志演義_書類

 

この時に派遣された使者が張松でした。おそらく張松はこの時、曹操に対して益州の情報を流す予定だったのでしょう。ちなみに『三国志演義』では建安16年(211年)に派遣されたことになっていますが、これは虚構です。物語を読みやすくするために創作したと考えられます。時系列が乱れていたら、読みにくいですからね・・・・・・

 

張松、劉備の所に行く!

曹操と張松

 

話を正史に戻します。派遣された張松は残念なことに官位を1つも頂けずに帰ることになりました。当時の曹操は孫権(そんけん)との対決で忙しかったから、益州(えきしゅう
)
の田舎者の相手なんてしていられません。

 

曹操には服従しているが内心キレている張繍

 

雑に扱われた張松(ちょうしょう)は「田舎なめるなよ!」と激怒!何もしないで帰るのも悔しいので、張松は長坂(ちょうはん)で曹操に敗北した劉備の所に行きました。当時の劉備は夏口(かこう)に駐屯していたので、そこに向かったのでしょう。

張松はなぜ劉備を選んだ?

劉備と張松(ちょうしょう)

 

張松は別に劉備の所に行く必要は無かったと私は考えています。おそらく自分を認めてくれる人だったら、誰でも良かったのでしょう。

 

司馬徽と曹操

 

建安13年(208年)当時の群雄は曹操・孫権・劉備・韓遂(かんすい)士燮(し しょう
)
・劉璋・張魯・・・・・・曹操は訪れて人物像を確認したので除外。孫権は曹操との決戦で準備中なので、おそらく会ってもらえないはず。韓遂と士燮は土地が遠すぎてすぐに行ける距離ではない。敵対勢力である張魯は当然論外。

 

劉備

 

そうなると自然と劉備を選ぶしかなかったのです。

 

歓迎される張松と法正

呉志(呉書)_書類

 

正史『三国志』に注を付けた裴松之が史料として採用している『呉書(ごしょ)』という書物によると劉備と面会した張松は、劉備から手厚い歓迎をされます。

 

法正

 

その後、張松の部下である法正も劉備に会いにいったところ、同じような歓迎を受けました。当時の劉備は孫権との同盟で忙しい時期。それなのに客人に対してしっかりとした対応をしたのでした。

 

法正と劉備

 

張松と法正は劉備の心意気に感動して、彼を益州の新しい主にする決断をします。劉備と張松・法正の間にどのような密約があったのか史料は語っていませんが、2人は劉備に益州の地図を差し出しました。この話は『三国志演義』も採用しており、ご存知の読者の皆様もいると思われます。

 

『呉書』の真偽

法正、劉璋、劉備

 

もちろん『呉書』の内容を疑う人もいます。南宋(1127年~1279年)の朱熹(しゅ き
)
は『通鑑考異(つがんこうい)』という書物で、張松と法正が劉備に地図を与えたことが『呉書』だけのみに記載されており正史『三国志』に詳細な内容が無いことから否定的にとらえています。

 

正史三国志_書類

 

だが、「正史=内容に信頼がおける」という理論はありません。そもそも密約を細かく記す史料は存在しません。あったとしたら、それは「史料」ではなく「小説」です。

 

史記_書類_劉邦と始皇帝

 

一例を挙げると、『史記(しき)』の始皇帝(しこうてい)の死から間もない頃の話。始皇帝死後、宰相の李斯(り し)宦官(かんがん)趙高(ちょう こう
)
がグルになって始皇帝の遺言をでっちあげ、息子の扶蘇(ふそ)と将軍の蒙恬(もう てん
)
を死に追いやりました。

 

ネズミで人生を変えた李斯

 

ところが、この話は李斯と趙高の密約。つまり、門外不出の内容です。それなのに、話の起承転結がしっかりとしており、読者に面白みを与えます。この理由から始皇帝の遺言偽造の話は小説であると現在では言われています。

 

正史三国志・呉書を作り上げる韋昭(いしょう)

 

それでは『呉書』は信頼に足る史料なのでしょうか?実は近年、『呉書』の史料的価値については研究されており信ぴょう性があると結論づけられています。

 

法正

 

だから、私は『呉書』の内容は決してウソではないと思っています。張松と法正は劉備に地図を献上すると、約4年に渡り秘密裏に交渉を続けたのだと考えています。

 

張松の最期と羽振り良き法正

二刀流の劉備

 

建安17年(212年)に劉備は五斗米道の張魯との戦いに備えるために、益州に行きます。張松・法正は劉備との交渉を何年も続け、主人の劉璋には曹操と縁切りして劉備を味方にすることを説得。

 

劉璋

 

納得した劉璋は劉備を益州に迎え入れました。劉璋の部下は何人も反対しますが、劉璋は全く聞き入れません。王累という部下は門からぶら下がって劉璋を引き止めますが、効果はゼロ!

 

龐統

 

劉備の軍師である龐統(ほうとう)は、劉璋を暗殺して益州を乗っ取ることを提案しますが劉備が反対したので頓挫になりました。龐統と劉備の協議の結果、用事が出来たので荊州に帰るフリをして益州を乗っ取る計画を立てます。しかし、この計画の詳細が張松まで伝わっていませんでした。本当に荊州に帰ると勘違いした張松は、劉備を引き止める手紙を書きます。

 

法正

 

だが、この手紙は張松の兄の趙粛(ちょう しゅく)に見つかりました。反逆罪は死刑です。巻き添えはご免だと思った趙粛はすぐに密告。捕縛された張松と妻子は処刑されました。張松の野望は法正に引き継がれます。建安19年(214年)に劉璋が劉備に降伏すると、法正は羽振りをきかせます。それは良い方向とはいえません。

 

法正

 

法正は少しでも恩のある人は莫大なお礼をしますが、自分を粗末に扱った人には徹底的な報復で返します。あまりにもひどいので訴えた人がいましたが、諸葛亮は「今の劉備様があるのは法正のおかげだ。処罰することは出来ない・・・・・・」と何も出来なかったそうでした。

 

三国志ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

張松は劉備が皇帝になる姿を見ることは叶いませんでした。兄の趙粛が保身に走らなければ、蜀(221年~263年)の重鎮として働いたかもしれません。

 

孟達と劉備

 

張松が生きていたら孟達(もう たつ
)
が魏(220年~265年)に亡命することもなかったし、彭羕(ほうよう)が劉備への悪口を言っても死罪になることは無かったと私は思っています。

 

読者の皆様はどう思われますか?

 

※参考文献

・高島俊男『三国志 人物縦横断』(初出1994年 のち『三国志きらめく群像』ちくま文庫 2000年)

・満田剛「韋昭『呉書』について」(『創価大学人文論集』16 2004年)

・李殿元・李紹先(著) 和田武司(訳)『三国志考証学』(講談社 1996年)

 

※はじめての三国志では、コメント欄を解放しています。この記事以外のことでも、何か気になることがあったら気軽にコメントしてください。お答え出来る範囲でしたら回答いたします。

 

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法正

 

 

 

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晃(あきら)

晃(あきら)

横山光輝の『三国志』を読んで中国史にはまり、大学では三国志を研究するはずだったのになぜか宋代(北宋・南宋)というマニアックな時代に手を染めて、好きになってしまった男です。悪人と呼ばれる政治家は大好きです。
         好きな歴史人物:
秦檜(しんかい)、韓侂冑(かんたくちゅう)、 史弥遠(しびえん)、賈似道(かじどう) ※南宋の専権宰相と呼ばれた4人です。
何か一言: なるべく面白い記事を書くように頑張ります。

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