関平は関羽の実の息子!一体どこで生まれたの?

2020年4月14日

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kawauso編集長(石原 昌光)

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kawauso編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務めるほか、紙媒体やWebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者・おとぼけ(田畑 雄貴)

コンテンツ制作責任者

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月に「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感していただけることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。

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関平

 

関平(かんぺい)は三国志演義における関羽(かんう)の養子です。三國志14では、とびきり高い能力ではないものの、統率77、武力82、知力68と平均的に高く使えるキャラになっています。

 

同年小録(書物・書類)

 

そんな関平、史実では養子ではなく関羽の実子でした。しかし、関平がいつ、どこで生まれたか史実には記録がないのです。そこではじ三では、関平がどこで生まれたのか推測してみます。

 

正史には14文字とても少ない関平の記録

幕末 魏呉蜀 書物

 

三国志演義では、劉備の養子の劉封と一緒に出てくる事が多く、周瑜の劉備暗殺を防いだり、蜀攻めで龐統が戦死したあとに、荊州に諸葛亮の援軍を仰ぐ使者になるなど出番が多い関平ですが、正史における記録となると

 

權遣將逆撃羽(そんけんしょうをおくりかんうをうつ) 斬羽及子平于臨沮(かんうとかんぺいをりんそできる)

 

このように、僅か14文字が関羽伝に記されているだけです。それ以外に裴松之(はいしょうし)が採用した王隠(おういん)の蜀記に、

裴松之(歴史作家)

 

①関羽が樊城(はんじょう)の攻囲に出撃した当初に、夢に豬に足を噛まれた。関羽が子の関平に語るには 「わしは年老いたが還る事はできぬ!」と語った

②孫権は将軍を遣わして関羽を攻撃し、関羽および子の関平を捕らえた。孫権は関羽を活かして劉備と曹操に対抗させたいと考えたが、左右の臣は否定し、狼の子は犬ではないので懐かずとても養えません。(後略)

 

kawauso

 

このような記述があるだけです。ただ、樊城包囲戦に従軍していて、関羽の愚痴のような言葉を聞いているので、相応に成長した若武者ではあると思います。

 

関平はどこで生まれたのか?

関羽

 

では、関平はどこで生まれたのでしょうか?関平にしても関興(かんこう)にしても、いつ生まれたという記述は正史にはありません。それに、そもそも、関羽や張飛は劉備の傭兵として中華全土を放浪しており、とても妻帯できるような状態ではなかったとも考えられます。

劉備と関平たち

 

当時の中国の大半の人は安住の地を得てから婚姻(こんいん)するのであって、放浪している劉備軍団は、大将の劉備(りゅうび)は別として定まった妻を持てず、(というより劉備は、曹操に追われると妻子を見捨てて1人で逃げています)土地、土地で旅妻を見つけては、軍団の移動で別れるを繰り返したのだと推測します。

 

蜀のマイナー武将列伝

 

放浪を繰り返す劉備の遍歴

劉備と的盧

 

試みに劉備の放浪歴を見てみましょう。

 

①安喜県(あんきけん)

②丹楊

③下邳

④高唐県(こうとうけん)

⑤遼東属国(りょうとうぞっこく)

⑥平原

⑦斉(せい)

⑧小沛

⑨下邳

➉小沛

⑪許

⑫沛(はい)

⑬許

⑭下邳(かひ)

⑮小沛(しょうはい)

⑯平原(へいげん)

⑰許(きょ)付近

⑱汝南(じょなん)

⑲新野(しんや)

太行山に入り山賊になる劉備三兄弟

 

黄巾討伐(こうきんとうばつ)の挙兵から劉表を頼って新野に落ち着くまで凡(およ)そ、16年間に19回もあちこち移動し続けています。途中には、関羽と張飛とはぐれた時期もありますが、このような落ち着きの無さでは、とても正式に結婚式を挙げている暇も家庭を築く暇もないでしょう。

 

はじめてのプロ野球 関羽

 

仮に、関羽が付き合っている女性との間に子供が出来ても、ある程度大きくならないと遠征についていかせるのも難しいと思います。大将の劉備は別ですが・・

荊州の7年間に家庭を持ったのでは?

関羽

 

黄巾討伐以来、人並みの幸せは望むべくもなく刹那的(せつなてき)な暮らしを強いられていた関羽ですが、劉備が荊州の劉表の世話になっている7年間は、新野から南の樊城に遷った事があったものの、それほど長距離の移動ではありません。

 

劉備 髀肉の嘆 ゆるキャラ

 

劉備は、この7年で特に戦争もないままデブになり、髀肉の嘆の故事も生まれました。劉備も側室の甘夫人との間に阿斗、すなわち劉禅(りゅうぜん)が産まれています。

碁をうつ関羽

 

劉表は傭兵隊長としての劉備に十分な報酬を与えたでしょう。曹操が荊州を攻めた時ですが、劉備は関羽を別動隊として、数百艘の船を与えて江陵で落ち合おうと送りだしています。劉表の没後、劉琮は曹操に降伏した事を劉備に知らせていないので、数百艘の船は劉備の自前か樊城の備品でしょう。相応の資金はあったと考えます。

酒癖の悪い張飛(桃園三兄弟)

少ない情報ですが、ボスの劉備がデブチンになるほどに富んで安定していたわけですから、関羽や張飛も当初の形態はどうであれ、家庭を持ちその過程で子供が生まれたのでしょう。荊州には7年間居たので、ある程度、自分で歩く事ができる程度まで子供達は成長していて、長期一緒にいたために離れがたくなり、大勢出た難民に混じって夏口まで落ちて行ったという事だと思います。

 

関平は樊城が初陣だったのではないか?

父・関羽とともに亡くなる関平

 

ですので、関平の生誕は西暦200年前後であり、樊城の戦いで敗れた頃には18歳くらいで初陣であったのではないかと考えます。そのように考えると、関平に手柄の記述がない事や後継ぎがいない事も説明がつきます。関平は非常に年若く、父である関羽の役に立とうと張り切りますが、皮肉にも初陣が最期の戦いになってしまったのです。

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

関平が一体どこで生まれたのかについて考えてみました。傭兵だった関羽は、実際には認知していない多くの子供が、中国各地にいたかも知れませんが、しっかりと家庭を持ち認知した息子は関平が初めてだったのでしょう。

 

参考文献:正史三国志

 

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英雄の死因

 

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。「はじめての三国志」編集長。三国志・中国史を中心に、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を執筆・編集し、当サイトでは4,000本以上の記事を担当。三国志は正史から入ったため、演義を書くときのほうが神経を使うという天邪鬼。故郷・沖縄の歴史に関する勉強会の開催や、ラジオパーソナリティとしての活動も行う。

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