
サムライと言えば、侍ジャパンと言うように強いばかりではなく礼節をわきまえた存在として知られています。少なくとも、ただ強いだけの乱暴者をサムライとは言わないでしょう。しかし、それはサムライが誕生してからしばらく経った後の事であり、平安中期に出現した滝口武士は、強いのは強いですが手のつけられない凶戦士だったのです。
この記事の目次
サムライを滝口武士と名付けた宇多天皇
そもそも武士は、天皇の子孫である王臣子孫と地方のまとめ役だった郡司富豪層と、武人輩出氏族が混血して誕生したものです。郡司富豪と武人輩出氏族が王臣子孫に娘を提供して男子を誕生させ、その子を貴種として担ぎ一族が団結する事で混血武人が成立します。
当初、中央とは縁がなかった地方の武人を京都に呼び寄せたのが宇多天皇でした。
寛平元年(西暦889年)東国を荒らしまわっていた群盗、物部氏永は、信濃、上野、甲斐、武蔵に多くの野盗を擁して暴れ回り、官軍は10年戦ってもそれを鎮圧できませんでした。
事態を重く見た宇多天皇は、天皇直轄のスタッフ集団、蔵人所を整備し、そこに地方武人を配置して滝口武士と名付けました。これこそ、日本史で武人が武士と呼称されるようになった最初だそうです。
以来、天皇が東国より武人を平安京に呼び寄せて天皇直属の滝口武士として雇用するという形態がテンプレ化していきます。このようにして滝口武士になった武人には、平将門や藤原利仁がいますが、広い関東平野で悠々と乗馬に慣れ、狩猟をし弓の達人だった彼らは地方に戻ってから、東国の群盗を朝敵として瞬く間に駆逐していきました。
ミイラ取りがミイラ平将門の乱
こうして、物部氏永以来の東国の群盗問題を片づけたと思いきや、今度は群盗を鎮圧した平将門が新皇を自称して独立王朝を建国する事を通告したのです。
まさにミイラ取りがミイラになった形ですが、同じ頃に瀬戸内海で藤原純友が海賊として暴れ回り大阪湾に侵入するなどしていて、朝廷は東西で反乱を抱えて非常事態に突入する事になります。
当時の摂政、藤原忠平は非常に慌てて、史上初めて天皇の住む大内裏を囲む宮城十四門に二人ずつ計28人の滝口武士を配置したのです。武士に対しては武士という構図ですが、この措置は、地方武人だった武士が天皇の戦士として認識される契機になりました。
幸いに平将門の乱は藤原秀郷により鎮圧され、将門の首は平安京に送り込まれます。いずれにせよ、東国の群盗問題は将門に群盗が鎮圧され、さらに将門が殺害された事で、一気に問題にならない所まで鎮静化します。
京都の治安に欠かせなくなる滝口武士
同じ時期、瀬戸内海で暴れ回っていた藤原純友ですが、こちらも別の武士により鎮圧され、首だけの姿になり平安京に送られてきました。こうして東西の危機は去ったのですが、相変わらず平安京の周辺は群盗に脅かされていました。理由は本来、盗賊を捕らえる衛府にやる気がない事でした。
平安京に4つ存在した衛府は、本来の業務である夜間巡回をせず、馬寮も馬を提供しないので、仮に出動しても盗賊が騎乗していればお手上げでした。無力が露呈した衛府は、群盗にも侮られ役所が群盗に襲撃された事さえあります。
衛府の無気力に業を煮やした天皇は、宮殿を守る滝口武士を御目付として4人配置します。元々はたるんでいる衛府の役人に喝を入れる目的ですが、その効果は違う意味で予想以上でした。
長和6年(1017年)正月、窃盗犯が天皇の御所にまで侵入した時、滝口武士が二人で弓で攻撃して身柄を確保、また正暦4年(993年)12月、権大納言、藤原伊周の家を窃盗が襲撃したのを、滝口衆、紀守親、中原某が弓で攻撃して賊を捕らえました。
元々はお目付けの滝口武士ですが、衛府の働きの悪さにたまりかね自らの武勇を発揮したようです。これにより役立たずの衛府より滝口武士を使う方が治安には効果的である事が証明され、武士は平安京の治安に欠かせなくなります。
凶暴だった滝口武士
しかし、滝口武士の強さは諸刃の剣でした。生命を顧みない武士の強さは野蛮人の倫理観に根差していて、強いけど短気で、乱闘を好み、気に入らなければ平然と相手を殺してしれっとしている本質的にヤバイ連中なのです。
先の藤原伊周の屋敷に押し入った賊を捕らえた紀守親、中原某も、どちらが射た矢が賊を捕らえたかで激しく口論し、長保2年1000年には、滝口武士の惟宗行賢と藤原親光が乱闘し追放除籍されています。
例えば強き武士だった源満仲は虫を殺すように人を殺すと恐れられ、その子の頼親が殺人の上手と呼ばれたように、強さは容易に反社会的な方向に向いました。元、滝口武士の中には、クビになったり退役したりした途端、賊に身を投じ、逮捕、脱獄、再逮捕を繰り返し、中には天皇の仮御殿に放火するなど、天皇に弓引く者まで出る始末でした。
皇族女子にウヒョしてしまった滝口武士
それでも、退役してから賊になるものはまだマシで、中には滝口武士のままで不道徳な振る舞いに及ぶ者もいました。
寛和2年(986年)6月、伊勢斎宮になって1年間、京の郊外に設けた仮住まいの野宮で潔斎していた済子女王と滝口武士、平致光が密通した事件が日本紀略、本朝世紀に記録されています。
もっとも身を清めないといけない時期の皇族の子女を欲望のままに平気で犯すというインモラルさが当時の武士の野蛮さを物語りますが、それでも滝口武士なしには、平安京の治安を守れないのが朝廷の実情でした。
御所を武装して守り遂に北面の武士へ
モラルの無い野蛮人という悪評を受けつつも、平安京において武士は急速に受容されていきます。円融天皇の貞元2年(977年)11月、滝口武士に弓矢を帯びて内裏に出入りしてもよいという特例が認められます。
本来内裏には、近衛府の武官と特別に帯剣を許可された者以外は武器の持ち込みが禁止されましたが、その慣例を破るものでした。さらに、寛和3年(987年)3月には、無人の朱雀院を武装した武者十人が守るように命令が出されました。
この朱雀院とは、退位した天皇が隠居する邸宅の事ですが、武者十人と書かれている事に注意して下さい。この頃には天皇も上皇も武士を滝口に任命する事なく、正統な理由さえあれば、随意に身辺を警備させる為に動員できるようにしていき律令制が形骸化、武士は天皇や貴族に仕える私兵のような存在になっていきます。
それにより、従来は平安京の治安を担っていた衛府も検非違使も歴史的な使命を終え、京都は、武士によって治安が維持される社会に変貌していきました。この後、応徳3年(1086年)白河天皇が堀河天皇に譲位し上皇として院政を開始します。
かくして、無人だった朱雀院は上皇の住まう場所になり、権力は二重構造化、同じく内裏の天皇と利害が衝突していく事になります。天皇と上皇、どちらも武士を軍事力として動員できたわけですから、結局はこれが保元の乱の切っ掛けになり、平氏や源氏がその武力で日本を掌握していくタネがここに撒かれました。
平安時代ライターkawausoの独り言
西暦889年に、宇多天皇により東国の群盗討伐の為に招集された関東の武人は滝口武士の名前で律令制に組み込まれ、初めて中央に登場するチャンスを掴みました。
非常な強さを持ちつつ、野蛮人で乱暴者として恐れられた武士は、以後270年の間に平安京の治安維持に欠かせぬ存在になり遂には武装したまま、天皇や上皇の御所を守る地位を手に入れ、保元の乱を契機に貴族を追い落とし、歴史の主役の地位を獲得するのです。
参考文献:「京都」の誕生 武士が造った戦乱の都 文春新書
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