西暦208年、曹操はそれまでの三公制を辞めて丞相府をその上に置いて、自ら丞相になりました。以来、曹操は長らく曹丞相と呼ばれるようになりますが、曹操の死後には、丞相職に就くものはいないという特別な職になります。
では、どうして曹操は三公を辞めて丞相府を置いたのでしょうか?
決定に時間がかかる三公
三公とは、その名の通り、司徒、司空、大尉の3つの地位の事を意味しています。今風に言えば、司空は国土交通大臣、司徒は内務大臣、大尉は防衛大臣にあたり後漢の政治は、この3名のトップが合議制で進めていました。
確かに、1人より3人の方が権力を分散する事が出来て、独裁的な手法に陥るのを防ぐメリットがありましたが、裏を返せば、ささいな議題でも3名の見解が分かれると、なかなか決まらないという事に繋がります。
三国時代は乱世であり、迅速な決定が必要でした。そこで曹操は三公の上に丞相府を置いて、自身が就任する事で迅速な決定が行えるようにしたようです。
ちなみに三国時代で著名な丞相はもう一人います。それが三国志演義後半の主人公、蜀の諸葛孔明であり、彼のワンマンぶりも曹操に勝るとも劣らないものでした。
三公から軍事力を取り上げる為
後漢には董卓や李傕・郭汜の暴政で衰えたとはいえ、軍事力が存在していました。例えば三公の指揮下にある九卿府の衛尉や光録勲、それに執金吾は、それぞれ南軍、北軍、殿内侍従宿衛という三軍を擁して宮殿を守備していました。
もし、三公に曹操暗殺を企む人間がいて、献帝から勅命を受けて南軍や北軍を動かして曹操を殺害しようとした場合、宮殿内にいる曹操では手も足もでなくなる恐れがあります。それが杞憂ではない証拠に、西暦200年には、車騎将軍の董承が献帝の密命を受けて、曹操暗殺未遂事件を起こしています。
そこで、曹操は三公の上に丞相府を置き、副丞相クラスである御史大夫を補佐として、三公を支配下に置き、さらに丞相府には軍事の中心になる武衛府を設置しました。こちらの武衛府は禁軍の宿衛兵を統率する地位で、曹操は武衛府を置くと息子の曹丕を武衛将軍に任命し、自身のボディーガードである許褚を武衛中郎将に任命しています。
分かりやすい人事から察せるように、丞相府の設置は曹操暗殺の可能性を排除する手段でもあったのです。
【次のページに続きます】