江戸城には弱点があった!無血開城するまで難攻不落だった江戸城

2020年6月2日

編集体制の詳細を見る
kawauso編集長(石原 昌光)

編集責任者

kawauso編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務めるほか、紙媒体やWebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者・おとぼけ(田畑 雄貴)

コンテンツ制作責任者

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月に「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感していただけることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。

提供する掲載情報について

『はじめての三国志』は、複数の企業と提携し情報を提供しており、当メディアを経由して商品への申込みがあった場合には、各企業から支払いを受け取ることがあります。

ただし、当メディア内での商品評価に関して、提携の有無や支払いの有無が影響を及ぼすことはありません。また、当メディアで得た収益は、読者の皆様により役立つコンテンツ制作へ還元し、情報の正確性担保に努めています。

詳しくは 編集ポリシー をご覧ください。


 

はじめての三国志コメント機能バナー115-11_bnr1枠なし

江戸城

 

江戸時代263年間、徳川幕府の象徴であり続けたのが江戸城です。1868年に明治新政府軍を相手に無血開城するまで難攻不落(なんこうふらく)であり続けた江戸城ですが、その江戸城には弱点があったってご存知ですか?

 

徳川家康

 

今回は、意外な江戸城の弱点と家康(いえやす)が息子達に残した総大将の心得を紹介します。

 

江戸城の弱点は半蔵門

安土城 織田信長が作らせた城

 

江戸城には大手門(おおてもん)、平川門(ひらかわもん)、清水門(しみずもん)、田安門(たやすもん)、半蔵門(はんぞうもん)、桜田門(さくらだもん)、坂下門(さかしたもん)の7つの門があります。特に警戒厳重なのが大手門で、榊原家(さかきばらけ)や阿部家(あべけ)のような10万石以上の譜代大名(ふだいだいみょう)が警備を担当し、鉄砲30挺、弓10張、槍50本、鉄砲隊2組、弓隊2組と総勢100名以上もいました。

火縄銃を撃つ侍(鉄砲)

 

そこを突破しても、大手三之門が待ち構え、甲賀、伊賀、根来(ねごろ)の忍者百人組が交代で待ち構えています。忍者と言っても、古式ゆかしく手裏剣を投げるのではなく鉄砲の名手であり、暗がりからパンパン撃たれ犠牲者続出、本丸に辿り着くには、まず数百人が必要でしょう。

kawauso

 

でも、数百人の人数で大手門の前に出てきたら、今から悪い事しまーすと宣言するようなものです。当たり前に捕縛されます。大手門から攻め込んではいけません。では、江戸城で一番の弱点はどこなのでしょうか?それはズバリ半蔵門なのです。

 

ダムになっている土橋を破壊する

荒れる黄河

 

江戸城の弱点、それは半蔵門です。ここには半蔵濠(はんぞうぼり)という水濠(みずぼり)があるのですが、半蔵門にわたる土橋がダム構造になって水を溜めるようになっているのです。

 

この土橋を攻城サイドが掘り崩した場合、半蔵濠の水は全て抜けてしまい歩いて渡れるようになってしまいます。さらに、この辺りは鉢巻構造といい石垣は僅かしかありません。関東には巨石が少なく家康は、半蔵門や田安門周辺の石垣をケチっているのです。

炎上する城a(モブ)

 

攻城サイドが、そのまま吹き上げを抜けると本丸天守台下の乾濠(いぬいぼり)まで一直線に進めます。乾濠と江戸城本丸は目と鼻の先なので、火矢や大砲を撃ち込めば、あっと言う間に江戸城は炎上してしまい落城です。

 

はじめての戦国時代

 

江戸城落城、将軍はどこに逃げるのか?

武田信玄と徳川家康

 

さて、江戸城が炎上したとしても、それだけで攻城サイドが勝利とはなりません。将軍が生きて脱出してしまえば、江戸城を燃やした所で旗本八万騎の逆襲に遭い全滅してしまうでしょう。

織田信長の首を持って逃げ出す弥助

 

本能寺の変で明智光秀(あけちみつひで)は、信長父子の首を探し出す事が出来ずクーデターの成功の証を立てるのに手間取っていますが、似たようなものです。ところで徳川幕府は、江戸城落城を想定していたのでしょうか?その場合将軍を逃がす手筈(てはず)は考えられていたのでしょうか?実はチャント用意されていたのです。

 

江戸湾には巨大軍船が停泊していた

鉄甲船

 

もしも江戸城が落ちた時に将軍を逃がす方法、それは江戸湾に浮かべた巨大軍船に将軍を乗せて海路で江戸を離れる事でした。実は、この巨大軍船、五代将軍徳川綱吉(とくがわつなよし)の御代まで、ちゃんと江戸湾に浮かんでいたというのですから驚きます。綱吉の時代は幕府開府から100年は過ぎていますから、幕府の用心は息が長いですね。

宋銭 お金と紙幣

 

しかし、この巨大軍船に引導を渡したのも綱吉でした。この太平の世に経費の掛かる軍船は不用として解体してしまったのです。

徳川家康が子孫に残した掟

こっぴどく敗退する徳川家康

 

将軍は海路から逃げると言うのは、特に突拍子(とっぴょうし)もない話ではありません。徳川家康は徳川家の男子たちに掟として、乗馬と水泳だけは一生懸命やるようにと言っていました。

「総大将は、ほとんどの事を部下がやってくれるが、唯一つ逃げる事だけは他人が代わってはくれないから、乗馬と水泳だけは鍛錬(たんれん)を怠(おこた)るな」というのが家康の子孫への教訓だったのです。

真田丸 真田幸村

 

考えてみると、家康は三方ヶ原(みかたがはら)、伊賀越え、そして大阪夏の陣では真田信繁に追い立てられたとも言われていて、首尾よく逃げる事で天下を獲った人ですから、子孫にも無事に逃げのびる事の重要さを力説したのかも知れませんね。

 

事実、徳川家の男子は家康の孫までは、水泳の達人が多く、徳川光圀(とくがわみつくに)は墨田川を泳いで軽々と往復し、尾張徳川家の光友は、八丁堀に飛び込んで立ち泳ぎしながら弁当を食べてみせたそうです。

 

東照大権現の再来のあの人も

大政奉還した徳川慶喜

 

そう言えば、徳川最期の将軍、徳川慶喜(とくがわよしのぶ)も東照大権現(とうしょうだいごんげん)の再来と将来を嘱望(しょくぼう)されていました。

西郷隆盛

 

しかし、西郷隆盛の挑発に乗り、江戸から大坂に出陣、鳥羽伏見の戦いを起こした末に敗戦し、部下には徹底抗戦を呼びかけておきながら、自分は陣中に伴った側近や妾(めかけ)、老中の板倉勝静(いたくらかつきよ)と酒井忠惇(さかいただあつ)、松平容保(まつだいらかたもり)、松平定敬(まつだいらさだあき)らと共に開陽丸(かいようまる)で江戸に逃げてしまいました。

黒船(ミシシッピ号)

 

この自分だけ逃げてしまう慶喜の決断は、徳川家の士気を大いに下げてしまうのですが、考えてみると、大坂と江戸の違いはあれど、なによりも総大将は逃げて命を守るのが肝要とした徳川家康の遺伝子を慶喜も受け継いでいるような気がします。

徳川家家紋

 

だって、朝敵の汚名は着たものの徳川家は滅ぼされる事なく、現在まで残っているんですからね。

 

江戸時代ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

今回は江戸城の弱点について、色々と書いてみました。江戸城落城後の将軍の動向については、将軍は半蔵門から伊賀忍者に守られて逃れ、次に八王子の千人同心と合流して、甲府城に向かい甲斐の山々を拠点に時間を稼ぎ、徳川恩顧の軍勢が集結するのを待つみたいな計画もあったそうです。なんにしても、幕府を開いてからも家康が万が一の事まで考えていた事が分かりますね。

 

参考文献:歴史の愉しみ方 忍者・合戦・幕末史に学ぶ 中公新書

 

関連記事:今川義元は徳川家康の大恩人?文武両道最強大名の真実

関連記事:関ヶ原の戦いで徳川家康は史上最高のファイトマネーを手にしていた

ガンバレ徳川

 

 

 

はじめての三国志を、もっと読みたい方へ
Google検索であなたの優先ソースに登録しておくと、はじ三の記事が上位に出やすくなります。
  • この記事を書いた人
  • 最新記事
kawauso編集長

kawauso編集長

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。「はじめての三国志」編集長。三国志・中国史を中心に、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を執筆・編集し、当サイトでは4,000本以上の記事を担当。三国志は正史から入ったため、演義を書くときのほうが神経を使うという天邪鬼。故郷・沖縄の歴史に関する勉強会の開催や、ラジオパーソナリティとしての活動も行う。

-戦国時代 (日本)
-,