関ケ原の戦いの主役といえば、徳川家康と石田三成。ですが歴史に詳しい人ならば、この戦いで徳川家康の肝を真に冷やしたのは、三成の家臣である島左近の存在であったことをご存知でしょう。
島左近は、まるで劉備玄徳に対する諸葛亮の如く、合戦前の外交の段階から常に石田三成の傍にいて助言を行い、
合戦当日には、まるで劉備玄徳に対する関羽や張飛の如く、自ら先陣を切って東軍に飛び込み、獅子奮迅の戦いを見せて豪快に戦死したと伝えられています。まさに文武双方において破格の人材であった島左近!
それにしても、どうしてこのような名将が、率直に言って不利な側である西軍に忠誠をつくし、石田三成の為に身を粉にして働いていたのでしょう?
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そもそも出自がナゾだらけ!?あちこちに出てくる「島ナントカ」という人物
そもそもこの「島左近」なる人物、その実像に迫ろうとすると、たちまち正体が見えなくなってしまうのです。これほどの破格の人材ならば、関ヶ原より以前にも戦国時代の様々な展開の中で活躍をしていておかしくはないと思うのですが、実際に史実の島左近を追おうとしても、関ヶ原以前の経歴は今一つ、謎めいているのです。
実は、島左近という名前自体にすら、問題があります。「左近」というのは一種の通り名であり、おそらくもっと武士らしい本名があったと推測されるのですが、これがよくわからないのです。
さまざまな史料に登場する「島清興」という名前の人物が、どうやらこの島左近の正体とされていますが、他に同時代の史料には「島勝猛」や「島友之」、さらには「島昌仲」などという人物の話も出てきます。
これらのすべてが島左近の異名なのか、これらのいくつかは別人の話なのか、あるいはこれらすべてが島左近とは無関係な人物でしかないのか。ともかく、よくわかりません。
こうした「島ナントカ」の名前の人物が、どうやら大和国の戦国大名、筒井順慶の家臣として活動していたこと、そしてその後に豊臣家に仕え、どこかのタイミングで石田三成に召し抱えられた、ということは、伝えられています。
ですがこれらも、どこまでが本当に島左近の経歴なのか、どこかで「島ナントカ」という別人の経歴が混じってしまっているのか、諸説が入り乱れていて、よくわかりません。
島左近が関ヶ原以前に何をしていたのか分からない理由を邪推してみる!
こうしてみると、やはり奇妙な感じがしてきます。時は戦国時代。能力に溢れた武将であれば、その名前は当然、東西に響き渡り、さまざまな史料でその事跡や人柄は細かく描かれていてもおかしくはないはず。ですが「島左近」という人物が明確に活躍しているのは、けっきょく関ケ原の合戦のみ。これでは、島左近は関ケ原の合戦で活躍するためだけに唐突に歴史に出てきて、関ケ原の合戦で戦死して、またたちまち闇に消えてしまったように見えます。
それならば「島左近という人物は、関ケ原の合戦で突然、才能を開花させた、おそざきの名将なのだ!」と仮定することもできるのですが、そうすると、今度は石田三成がたいへんな待遇で島左近を召し抱えた理由がわからなくなってしまいます。どう見ても、石田三成は、島左近の才能に惚れこんでラヴコールを送り、手厚く家臣に迎え入れたように見えるからです。どういうことなのでしょう?
ここでひとつ、あえて深読みをしてみましょう。こんな邪推が可能ではないでしょうか?
石田三成にせよ、安国寺恵瓊にせよ、関ケ原の合戦で徳川家康にたてついた側のリーダーたちは、徳川家から見ればどちらかと言えば「悪人」とみられるハメになりました。西軍を裏切って家康についたはずの小早川秀秋にしても、弱腰で惰弱な人物として、江戸時代の歴史物語の中ではさんざんな描かれ方をしています。
もしかしたら、島左近は徳川家にとってあまりにトラウマになるほどの怪物であった為に、その記録や伝承は江戸時代を通じて封印されてしまったのではないでしょうか?
さすがに関ケ原の合戦での大活躍ばかりは、歴史から完全に抹消することはできなかったものの、それ以前の活躍については徹底的にタブーとされ、封印されてしまったのではないでしょうか?
島左近が三成に仕えたのは、若き家康に強烈なトラウマを与えた因縁の相手だったから?
この邪推を裏付ける伝承が一つあります。『天元実記』という史料に記載されているエピソードなのですが、関ヶ原合戦の軍議の場で、なんと島左近は島津豊久に向かって、「私はかつて甲斐の武田家に仕えていたことがあって、その時、若き日の家康が逃げ出すところを見たことがある」と語ったというのです!
この挿話もまた、虚実がつかみかねる話ですが、しかし興味深い話です。島左近が武田信玄に仕えていたことがあった?そして三方ヶ原の合戦で、家康が便をもらしながら逃げる悲惨な敗退をしたその場に、家康の敵将として、参戦していた?
戦国史ライター YASHIROの独り言
これが本当だとすれば、徳川家康は島左近のことを「あの屈辱の三方ヶ原の合戦で、自分を追い詰めた男」として、強烈なトラウマと共に思い出していたことでしょう。
だとすれば、関ケ原の合戦で島左近が戦死した後、おそるべき執念で島左近の記録を封印したという仮説も補強できます。徳川家にとって、島左近は「できれば歴史から消したい」くらいに恐ろしい因縁の相手だったことになるからです。そしてそう考えると、島左近が石田三成の下であれほど奮戦した理由もわかってきます。
島左近は、徳川家康から「若き日のトラウマの相手」として徹底的に目をつけられていた、つまり、もし徳川の天下になったら、確実に惨めなやり方で抹殺される運命だった!
島左近としては、徳川家の天下になれば生きる道はない。石田三成と一緒に、イチかバチか、徳川家の天下取りを妨害するしかなかった人物なのかもしれません。これらはあくまで仮説ですが、もしそうだとすると、関ケ原の合戦における島左近の奮戦は、若き日の家康を心底苦しめてしまった経歴を持つ名将の、最期の輝きをかけた花道だったのかもしれません。
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