魏帝曹丕と言えば、どのような人物像が思い起こされるでしょうか。帝として政治改革を行う優れた革新的な政治家、いくつもの繊細な詩を残す文人、しかしその一方で性格に問題がある陰険なやつ……と思っている人は多いのでは?
曹丕はその実際の人物像よりも、冷酷な描写をされることが多いように思えます。そこで少し今回は曹丕のフォローをするために、文帝についてクローズアップしてみましょう。
この記事の目次
良くある曹丕のイメージはどこから来た?
繰り返すようですが、曹丕は冷淡、冷酷、もしくは神経質なように書かれているイメージがあります。これについてはやはり禅譲を行った、という点が一番大きいのではないかと思われますね。
とはいえ曹丕の行った禅譲、というよりも禅譲とは平和に皇位を譲ることであり、武力によって奪うなどした場合は簒奪と呼びます。
これは筆者が繰り返して言っていることですが、魏の敵国であった蜀は漢王朝の後継者を名乗っているために魏を正統な後継者と認めると従わなければならないために、敢えて簒奪したとの見方をしたためこれが三国志演義などで広まり、曹丕のイメージがより悪くなったのでは?と筆者は考えます。
出るわ出るわの曹丕の問題行動
しかしじゃあ曹丕の行動になんら問題がないか、と言われれば断じてNOでしょう。
例えば甄皇后に自殺を命じた事を筆頭に、捕虜になった于禁を辱める絵を曹操の墓に描かせたり、過去に借金を断られた恨みから曹洪に罪を犯した食客ともども処分しようとしたり、正妻より愛妾を寵愛した夏侯尚を「自分の身内なのに」という理由から愛妾を殺させ、精神を病んだ夏侯尚を更に卑下したり……最後はまあ後から反省はしたものの、どうも苛烈すぎる問題行動もあるのは事実です。
ですがこれらの行動に関しては、曹丕の一面でしかありません。
曹植との仲
例えば七歩の詩で有名な曹丕の曹植いびり。この後も曹植は一生冷遇され各地を転々とさせられた……ように思いますが、曹丕は曹植の所に行幸したり、その後にちょっと加増したりするなど、実はそこまで曹植のことを嫌っていた訳ではないように思います。
これは正史の注にあることですが、曹植が行方不明になったけど無事だと知った曹丕は母親と一緒に喜んだとあります。しかしその一方で曹植と面会した時には厳しい表情のままだった(お母さんはこれが不満だったそうな)ともあるので、個人的には曹植を嫌っていたというよりは公私の使い分けが激しいのかな?と思ってしまいますね。
乱世という時代背景
また良く弟たちへの対応が酷いと言われる曹丕ですが、世は乱世。兄弟たちが仲が良かったとしてもその部下たちが派閥を作って争うというのは良くあることです。しかも曹丕はただの王ではなく帝、皇帝。
そんな中で弟だから、と甘い対応をしていては悲劇が大きくなる可能性もあるでしょう。そういう面で曹丕は自分を厳しく律しすぎていたのではないかと思うのです。
【次のページに続きます】